柴田錬三郎著 日本男子物語 目 次  会津白虎隊  上野|彰義《しょうぎ》隊  函館五稜郭  水戸天狗党  網走囚徒  異変桜田門  大和天誅組  日本人苦学生  カラフト隠密  純情薩摩隼人  会津白虎隊 「等々呂木神仙」紹介  等々呂木神仙《とどろきしんせん》。年齢——七十歳以上であることは、たしかである。いや、もう八十の坂を越えているかも知れぬ。というと、春秋高く、茶烟鬢糸《さえんびんし》の感を催しむる枯淡の老翁《ろうおう》を創造されそうだが、どうして、まるまると肥って、皮膚など青年のようにつやつやしい。対坐すると、どすぐろくひからびた私の顔の方が、はるかに老《ふ》けている。  老人は毎朝四時に起きて、相模《さがみ》の野道を五里あまり散歩する。室内にあっては、一年中すっ裸である。 「いまでも、手淫《しゅいん》ができるぞ」  と、豪語している。  神仙という号とは、およそ、かけはなれた人物である。  去年、その名をきいて、訪れる時は、「なんとなき老い衰えたる人だに、今はと世をそむくほどは、怪しゅうあわれなる」姿を想像していたところが、玄関に、ぬっと現れた生まぐさい木菟《ずく》入道に、びっくりしたものであった。 「これから、一年あまり、毎月一度、お訪ねして、先生の史譚《したん》を——日本男子の爽快《そうかい》な話しをおうかがいしたい」  と申し出ると、大声で、 「わしは、ファッショではない」  と、呶鳴《どな》るように云い、それから、にやりとして、 「あんた、助平そうな面《つら》しとるのう」  と、あびせて来た。  おかげで、こちらは、気が楽になった。  雑談に花を咲かせたが、まことに、よくしゃべる老人であった。  爾来《じらい》、約束通り、私は、毎月一度、その家を訪れて、うそだかまことだか、老人のしゃべりまくる昔話を、メモして来る習慣がついた。  これから、発表するいくつかの「日本男子物語」は、すべて、等々呂木神仙の対談をそのまま、紹介するものである。したがって、作者である私が、その虚実の責任をとるわけにはいかない。あるいは、その後裔《こうえい》の人々が、 「でたらめも甚《はなはだ》しい」  と、烈火のごとく、憤怒《ふんぬ》される場合も、しばしばあろうが、どうか、一老人の対談として、看《み》のがして頂きたい。  私自身、いささか、疑惑をおぼえ、首をかしげ乍《なが》ら、書きとめた箇処《かしょ》もすくなくないのである。すべては、百年あるいはそれ以上の歳月の彼方で起った出来事である。目撃者が一人のこらず、鬼籍《きせき》に入ってしまっているのであるから、真偽を糺《ただ》すことは、むつかしい。  げんに、われわれが生きている現代で起った事件でさえも——例えば、松川事件など、その真犯人が果して何者か、不明なのである。  まして、カメラも電話も、新聞、週刊誌も、持たぬ文明未発達の時代の出来事である。それが、正しく記録される筈《はず》がない。たとえ、目撃者が述べたとしても、記憶ちがいもあろうし、個人の感情で、白を黒と断定したかも知れぬ。  大方の叱責《しっせき》をまぬがれたいために、先手を打っておくつもりでは、さらさらないが、なにしろ、等々呂木神仙の対談は、まことに勝手放題であり、また、その勝手放題さをはぶくと、ひどくつまらなくなるために、敢えて、そのまま、紹介するにあたって、一応のお断りをしておかねばならぬのである。かさねて、お断りしておく。本篇は、史実を述べる歴史譚ではない。一老人の放談である。  一  戊辰《ぼしん》戦争のことは、もうあらゆる書籍で語りつくされている。わしが、いまさら、しゃべるまでもないだろう。  しかし、どの本を披《ひら》いてみても、やたらに、ややこしく書いてあるな。なに、きわめて、かんたんなことさ。  嘉永《かえい》六年以来、外国の軍艦が、次から次にやって来るので、いままで、竜《たつ》の落し子のような小さな島国の中に、盲聾《もうろう》の生活をしていた三千万の人間が、大あわてしただけのことだな。  外国の軍艦を追っぱらってしまえ、という攘夷論《じょういろん》を、わめきたてたり、貿易を要求して来る諸外国に、へこへこする幕府の態度が、なっとらんから、いっそ、ぶっ倒してしまえ、と討幕論を、呶鳴りたてたり、てんやわんやしているうちに、薩摩《さつま》と長州が、勢力をのばして来た。  つまり、権威|失墜《しっつい》した徳川幕府対|外様《とざま》大大名との争いが、戊辰戦争で、とどのつまり、将軍の方が、カブトをぬいだ。それだけのことだ。  将軍は、もう、勝てん、と思って、カブトをぬぐ機会をねらっているのに、親藩とか旗本が、 「外様の野郎に、頭が下げられるか!」  と意地を張った。そのために、四方八方で、悲劇が起ったわけさ。  会津が、そうだ。  藩主の松平|容保《かたもり》は、儒教の教えを判で押したように実行した「名君」だが、そのクソ真面目さが、かえって、家臣たちに対し、暴君以上の残忍な結果を与えてしまったのだな。  まず——。  容保の失敗は、明治元年正月の鳥羽《とば》・伏見の戦いだ。  将軍徳川|慶喜《よしのぶ》は、公卿と薩長を刺戟《しげき》することをおそれて、わずかの兵をつれて、京師《けいし》に入ろうとした。容保は、しかし、岩倉具視《いわくらともみ》の奸譎《かんけつ》、薩摩の権謀に陥るおそれがある、と主張して、会津・桑名の両親藩の兵を先頭に、姫路、高松、松山、大垣、浜田、忍《おし》、長岡の諸藩及び幕兵一万を率いて、鳥羽、伏見両道から、京師に入ろうとした。  京都守護職であり、将軍家の身をあんずる忠臣としては、そう考え、そうしたのは、当然だろう。臨機応変、敵の裏をかく智謀など、容保にはなかった。  そして、戦いに敗れて、容保は、封地会津若松に還《かえ》って、ひたすら、恭順の意を表し、しばしば、上書して、恐懼《きょうく》の状を述べたが、もう間に合わなかった。  よかれと思ってやったことが仇となって、逆に、叛賊《はんぞく》の名を冠《かぶ》せられてしまった。  孝明天皇には殊遇されたが、少年の明治天皇からは、将軍家の代弁者としかみなされていなかった容保だ。いくら、歎願書を上《たてまつ》っても、効果があろう筈がない。 「伏見戦争の儀は、徳川内府|上洛《じょうらく》の先供として入京しようといたしたところ、その途中、発砲を受け、武門のならいとして、やむを得ず応じて、一戦に及びましたことで、決して闕下《けっか》を犯すような心は毛頭なかったことは万人が知るところでございます」  そんな哀訴をしてみたところで、将軍家の勢威を奪いあげた少年天皇が、そんな寛容を持たれる筈もない。  そのまわりには、この機会に、一挙に、徳川家の勢威をたたき落してしまおうと図っている者ばかりだ。少年天皇に、これらの連中を制《おさ》えて、無血革命を行うだけの老獪《ろうかい》な知慧《ちえ》が働く道理があるまい。  会津討伐の師は、怒濤《どとう》のごとく、前進しつづけて来た。  会津藩の恭順ぶりと、これに対する薩長を主体とする討伐軍の態度を比べれば、人情として、奥羽の諸藩が、前者に同情を寄せるのは、当然だ。 「かれ薩長、猥《みだ》りに朝廷を籠絡《ろうらく》し、兵を出して、王師《おうし》と仮称し、以て暴威を天下に振わんとするの野心なからずんばあらず、然らずんば何ぞ事情を察せず、ひたすら戦いを好み、民を苦しめ、国を擾《みだ》さんとするや」  ということになった。  そこで、仙台(伊達陸奥守慶邦《だてむつのかみよしくに》)はじめ、二十五藩が同盟を結んで、会津討伐軍に抗しようとした。  二十五藩は、薩長軍は官軍にあらず、また、我らは錦旗《きんき》に弓を引く者ではない、という評議によって、討伐軍を官軍と称さず、賊軍と呼んだ。  しかし、もともと、隣藩というものは、むかしから、犬猿の間柄だ。例えば、盛岡(南部美濃守利綱《なんぶみののかみとしつな》)と弘前(津軽越中守利綱《つがるえっちゅうのかみとしつな》)が、仲よく同盟を結ぶ、などということは、おかしな話だ。二百年来の仇敵同士なのだ。  同盟は、形式だけにおわった。討伐軍が入って来るや、諸藩は、抗戦いくばくもなくして、降伏してしまった。まことに、だらしない話であった。  ひとり、会津藩のみが、老若男女、九十歳の老翁から十歳の小童にいたるまで、刀折れ矢尽きるまで抵抗をつづけ、藩主容保が降伏の|ほぞ《ヽヽ》をかためた後に於ても、ついに、節義をたて通して仆《たお》れる者が続出したのだ。  二  面白いものだな。会津藩は、仙台その他の各藩とは、家中の気概が特別異っていたというわけじゃない。  会津藩士には、会津魂があった、というが、仙台藩には、仙台魂があったろうし、米沢藩には、米沢魂があったろう。ナントカ魂は、その藩、その家中の専売特許ではないのだ。どこにでも、ころがっていた。  ただ会津だけが、女子供まで決死の覚悟をかためて、徹底抗戦したのは、つまり窮鼠猫《きゅうそねこ》を噛《か》んだのだな。  平身低頭、これ以上できないほど謝罪恭順の意を表して、ひたすら許しを乞うたにも拘《かかわ》らずなお履《ふ》みつけて来ようとするから、 「もはや、こうなったら、武士の意地だ!」  と、|ほぞ《ヽヽ》をかためた。  いわば、売られた喧嘩《けんか》なら、買わずばならぬ、と奮起したわけだな。  孫子にもあるな。 「囲帥は必ず闕《か》く。窮寇《きゅうこう》は迫る勿《なか》れ」  敵を包囲するに当っては、必ず一方に、逃げ口を開けておいてやらねばならぬ。遁《に》げ道を失ってしまった敵を、追いつめてはならぬ。いずれも、遁《のが》れられぬとさとるや、それこそ死にもの狂いの力をふるい起して、反抗して来るからだ。  いやしくも、一軍を率いる者は、孫子ぐらいは、そらんじている筈だが、いざ、その時にいたると、忘れてしまうものらしいな。  奥羽|鎮撫《ちんぶ》総督・九条|道孝《みちたか》、副総督・沢|為量《ためかず》、参謀・醍醐|忠敬《ただたか》、大山|綱良《つなよし》、世良修蔵《せらしゅうぞう》という顔ぶれだが、あまり、智慧のある連中じゃなかった。  だいたい、松平容保が、会津若松城へ帰還するにあたって、朝廷にさし出した謝罪書を、岩倉具視が、にぎりつぶして、奏上していないが、岩倉具視など、「孫子」を読んだこともなかったろう。あまり、頭のいい男じゃなかったね、具視は——。  九条道孝だって、同じだ。長袖《ちょうしゅう》の公卿などが、鎮撫総督になるなど、ちゃんちゃらおかしな話だ。  奥羽二十五藩連署の会津藩|救解《きゅうかい》の歎願書がさし出されたが、これを受けつけようと主張したのは、たった一人、戸田|主水《もんど》だけであった。 「兵力を以て討伐するには及ばず、問責の目的を達すればよい」  戸田主水の意見は、正しかった。  参謀の世良修蔵は、せせら嗤《わら》って、この意見に反対した。そのため、歎願書は、総督より却下された。  そればかりか、世良修蔵は、仙台・米沢両藩に対して、会津討伐に参加せよ、と迫った。  参謀として、下の下だった。  九条道孝はロボットだが、副総督の沢為量も、参謀の醍醐忠敬も世良修蔵も、まあ、人間としては屑《くず》であったのだ。  渠《かれ》らは、三月、仙台に入るや、春|闌《たけなわ》の|榴ヶ岡《ざくろがおか》で満開の桜見物の酒宴をひらくや、べろべろに酔っぱらって、給仕に召集した家中の妻女、娘にたわむれかかり、世良修蔵のごときは、一人の若妻を追いかけて、芝生の上へ押し倒し、股ぐらへ、手を突っ込んで、弄《もてあそ》んで居る。  その若妻は、あとで、自害して果てた、という。  参謀が、こうだから、その下の薩長の兵が、仙台城下で、藩士を侮辱し、俗謡で、地下人《じげにん》をさげすみ、怨嗟《えんさ》を買ったのは、当然だろう。  薩長兵は、酔うと、街頭をねりあるき乍《なが》ら、唄ったものだ。   竹に雀を、袋に入れて、   あとで、おいらのものにする  民家へ押し入って、女房や娘を強姦する件も、一二にとどまらなかった。  このため、悲憤して、脱藩して、会津へ趨《はし》る士もすくなくなかった。  世良修蔵が、福島に入って、北町の妓楼《ぎろう》金沢屋で、敵娼《あいかた》を抱いて、寐《ね》ているところを、仙台藩士瀬上|主膳《しゅぜん》と姉歯武之進に捕えられ、首を刎《は》ねられたのも、自業自得というものだろう。  その妓楼金沢屋宇一郎は、博徒の親分で、侠気があった。瀬上主膳にたのまれると、 「引き受けました」  と、胸をたたき、修蔵の敵娼《あいかた》を呼んで、その旨を申し含めて、泥酔させた。  修蔵は、敵娼のここを先途《せんど》の大サービスに、すっかりいい気分になり、酔っぱらって、裸踊りまでやっている。やがて、ぶっ倒れて、高いびきをかきはじめるや、敵娼が、そっと、その差料を別の部屋へかくしてしまった。修蔵は、腕前だけは、相当のものだったらしい。  ともかく、こんなだらしない参謀をしたがえた総督九条道孝が、鮮やかな鎮撫などできる道理がなかった。  奥羽の諸藩は、解兵し、ひとり、会津藩だけが、悲壮な抗戦のために、起ち上った。歴史は、くりかえす、というが、どうも、そうらしい。  その時の松平容保は、恰度《ちょうど》、アメリカにABCDラインを敷かれて、ニッチもサッチもいかなくなり、ついに、太平洋戦争を起した昭和十六年の、日本の天皇の立場に、似ているな。  討伐軍が迫って来る、という報に接して、若松城内は、非戦論と主戦論に分かれたが、恭順の意を表していた容保以下重臣らも、肚裡《とり》では、薩長に対する抑え難い憎悪を持っていた。  たとい、一戦を交えるにしても、一応なんのために、如何なる名分のもとに、会津を討とうとしているのか、その理由を質《ただ》そう、と議一決して、使者が、江戸へ遣わされた。しかし、使者は、幾日経っても、還っては来なかった。再び、使者を送ってみたが、これも、帰って来なかった。  そのうちに、館林、日光方面で、戦闘が開始された。  若松城からは、三度び、使者が、送り出された。その使者も、ついに、帰還しなかった。  使者は、ことごとく、捕えられて、斬られてしまったのだ。  五月に入るや、薩長勢は、白河まで押し寄せて来た。  ここにいたっては、やむなし、と会津藩は、決起したのだ。昭和十六年の日本と、状態が似ているではないか。尤《もっと》も、日本軍閥は、ひたすら、恭順の意を表して、米英の寛容を乞うてはいなかったがね。  窮鼠であったことは、たしかだ。噛《か》みつけば、猫も、怖れをなして、ひきさがるかも知れぬ、と日本軍閥も会津も思ったことはたしかだろう。  三  会津軍が、何日、どこで、どのように闘ったか——記録めいたことは、面倒だから、はぶく。  ともかく、会津軍は、よく闘ったな。  飯盛山で自刃《じじん》した士中白虎隊十九名のほか、飛火剣光《ひかけんこう》の間に討死した春秋ようやく十四から十七歳の少年が、八十余名。  刀槍を把《と》って腥風血雨《せいふうけつう》の中に戦歿《せんぼつ》した桑楡暮影《そうゆぼえい》の六十から九十六歳までの老人が百八十余名。  薙刀《なぎなた》を揮《ふる》って敵陣を衝いた妙齢の娘子《じょうし》、あるいは、幼児を刺して自らも生命を裁《さば》いた白髪|傴腰《うよう》の老媼《ろうおう》などを含め、国難に殉《じゅん》じた婦人その総数二百五十余名。  青壮年者の戦死者に、これらの人々を合せれば、三千人の多きをかぞえるのだ。 「名君」容保のクソ真面目さがこの悲惨の結果をまねいた。  さもあればあれ、だ。  社稷《しゃしょく》存亡の秋《とき》に方《あた》り、闔藩《こうはん》こぞって、国難に殉じた。その日月を貫く忠誠、風霜を凌《しの》ぐ勁節《けいせつ》を、わずか百年前のわれらが先祖は、持って居ったのだ。  それにくらべてみるがいい、今日の世相を——。  党同伐異《とうどうばつい》の代議士どもは、利権争いに血眼になり、私腹をこやすことに熱中して、朝野に跋扈《ばっこ》し、欧米心酔の俗学は曲説を弄《ろう》して子弟をあやまり、顕門の姆師《ぼし》は靡曼《ひまん》を誨《おし》え、富家の閨閤《けいこう》は妖冶《ようや》を習う。世は文柔に傾き、人は浮華《ふか》に走り、神州の正気は、特に衰頽《すいたい》しつくしとる。  十代の若僧どものあの恰好《かっこう》は、ありゃ、なんじゃ。車夫馬丁《しゃふばてい》のパッチの如き細いズボンをはいて、エレキ・ギターとやらをひっかき鳴らして、 「お嫁においでよ、ボク幸せだなあ!」  とは、なんじゃ、いったい! (等々呂木家の隣家には、高校生がいて、毎夜、友達を集めて、エレキ・ギターの合奏をやって、神仙老人をなやましている模様であった)  あんなガキどもに、会津白虎隊の墓の苔《こけ》でも、煎《せん》じてのませてやりたいて。  それもこれも、現代の教育がなっとらんのだ。教育といっても、学校教育のことじゃない。  われわれの若い頃は、十五歳になると——つまり元服すると——先輩が、遊廓《ゆうかく》へつれて行ってくれて、しかるべき親切な女郎に、その旨《むね》を申し含めて、童貞をすてさせてくれたものだ。そういう教育を、いまの大人どもは、やっとらん。女郎屋も廃止してしまった。しかたがないから、キイキイガアガア、西洋楽器をひっかき鳴らして、ウサをはらして居るのだろうが、あわれなものだ。高校生といえば、もう十七八になっとるのだろう。女も知らずに、毎朝|勃起《ぼっき》させて、ムラムラして居っては、頭脳もバカになろうて。テレビに出て来る十代の歌うたいなど、男根が隆々として居ると思われる奴など、一人も見当らんじゃないか。  たった百年で、こうも、チンポが、しなびてしまったとは、まことに、遺憾《いかん》きわまることだ。  さて、松平容保は、京都から若松城に戻ってから、万が一の不測の変に応ずるために、軍制を改革して居る。  藩士の年齢によって、四隊に大別し、さらに、これを身分によって、士中《しちゅう》・寄合《よりあい》・足軽の三階級に分けた。 [#ここから2字下げ] 白虎隊(自十六歳至十七歳)士中・寄合・足軽各二中隊 朱雀《しゅじゃく》隊(自十八歳至三十五歳)士中・寄合・足軽各四中隊 青竜隊(自三十六歳至四十九歳)士中三・寄合二・足軽四中隊 玄武隊(五十歳以上)士中一・寄合一・足軽二中隊 [#ここで字下げ終わり]  すなわち、会津藩十六歳以上の男子にして、いやしくも、戦闘に堪《た》え得るものは、全員挙げて、軍隊に編入されたのだ。  総人数は二千四百八十人であった。  この全員が、壮烈なる討死を覚悟した。  わしは、さきに、会津には会津魂があり、米沢には米沢魂があり、ナニナニ魂は、専売特許ではない、と云ったが、しかし、その藩その家中によって、伝統の特質はある。会津の士風は、徳川三賢の一人藩祖|保科正之《ほしなまさゆき》によって方針をさだめられ、三百年の文教武育によってつちかわれたものだが、すでに、藩祖がその方針をさだめる前に、勇武義烈の士魂は、土壌として、その土地にあった。  天正十七年、会津城主|葦名義広《あしなよしひろ》は、伊達政宗と、磐梯山麓《ばんだいさんろく》の磨上原で戦って、敗れて常陸《ひたち》にはしった。その時、しんがりをつとめたのは、金上盛備、佐瀬種常の父子であった。種常の長子常雄は、まだ十六歳であったが、手兵をひっさげて、伊達軍に突入し、阿修羅《あしゅら》となって、闘い、ついに討死した。  さらにまた、会津藩の家臣は、藩祖保科正之に随従して来た信州|高遠《たかとお》武士の後裔が多かった。  天正十年、織田・徳川の連合軍は、武田勝頼を攻めて、これを破り、降伏せしめた。しかし、武田家の諸将のうちに、ひとり、毅然《きぜん》として、雲霞《うんか》の大軍をひき受けて、降らず、奮戦して散ったのは、高遠城主|仁科《にしな》五郎信盛であった。年齢十八歳であった。  この攻防で、寄せ手の総大将織田信忠は、使者を遣して、降伏を勧めた。  すると、五郎信盛は、 「織田殿は、真の武士の心を知りたまわぬとみえたり、運尽くればこそ、籠城つかまつる也。われらが城は、降参せんとて築きしものにあらず、早々御陣を寄せられるべし。いずれ合戦の砌《みぎり》、この信盛のもののふぶりをお見せつかまつらん」  と返書をしたため、使者の耳鼻を殺《そ》いで、追いかえした。  それから二日後、五郎信盛は、わずか四百騎を率いて、黒いつむじ風のごとく、銀の髭竜《しりゅう》の馬|印《じるし》をひるがえして、城門から駆け出てまっしぐらに突入し、阿修羅となって、敵陣を攪乱《こうらん》した。  信盛は、部下全員を討たれたのち、おのが首級を敵手に渡さぬため、城内で切腹すべく、還って来た。  その時、信盛の最後をかざってくれるものが、城内に待っていたのだ。  近習《きんじゅう》に呼ばれて、奥の一室に入ってみると、生母が、夜具の上に、眩《まぶ》しいばかりの真紅の楓重《かえでがさ》ねの小袖の前を、ただ合せただけで、坐っていた。信盛の母は、三十六歳の女ざかりで、信州一円にきこえた絶世の美女であった。  母は、信盛をそばに呼んで、 「五郎殿は、いつぞや、妻をめとるならば、母上のような女性《にょしょう》を、と申しましたね?」  と云い、信盛が頷《うなず》くと、 「討死なさる前に、その女性を、妻にして臥《ふ》されるがよい」  と、云った。 「どこに居ります、その女性が?」 「ここに居ります」  母は、こたえた。 「わたくしです」 「……」 「わたくしを妻になさるがよい」  そう云い置いて、母は、寝具の上へからだを仰臥《ぎょうが》させると、自分の手で、しずかに前をひろげた。ゆたかな白い裸身が、すぐその下にあった。  今日のわれわれの常識では、考えられぬことだが、儒教の教えなどなかった戦国の時代の男女の情操は、いたずらに、道徳にとらわれず、倫理観念に怯《おび》えなかったものだ。  童貞のままに、花の盛りを散らそうとするわが子に、せめてただ一度女の肌を知らせてやりたい、と思いついた母は、自らのからだを与えることにしたのである。その考えは、きわめて自然に、湧《わ》いたことだ。  五郎信盛は、母を抱いたのち、従容《しょうよう》として死に就いている。  信盛に殉じた城兵二千六百名。織田軍もまた、同じ数の討死者を出した。  この高遠城で、奮戦して死んだ小山田備中、同大学、春日河内ら部将の末裔《まつえい》が、ことごとく、保科氏の臣となって、会津に移ったのだ。  保科氏は、正之の曾祖父弾正忠正俊が、武田氏に仕えて信濃を領し、次代越前守正直は、高遠城陥落後、東国にはしったが、のち、徳川家康に降って、高遠を賜ったのだ。  会津藩の子弟たちは、佐瀬常雄や仁科五郎などわずか十代の少年が、武辺の面目に勇んで、死に就いた故事を、語り継《つ》がれる士風の中で育ったわけだ。国難に殉じる覚悟は、幼い頃からできていた、といえる。  四  会津には水戸|烈公《れっこう》が命名した日新館《にっしんかん》という武家の子弟を鍛える塾があった。その学生たちが、白虎隊員に編入された。  朱雀隊は、十八歳から三十五歳までの血気|壮《さか》んな士によって組織されていたから、いわば現役軍で戦場では先鋒《せんぽう》隊になる。青竜隊は、予備役、玄武隊は、後備というわけだな。  この四隊の訓練は、当時としては最も新しい仏蘭西《フランス》式であったな。軍事顧問として、仏人シャノアンを聘《へい》して居った。  会津藩では、すでに、その前に、山川|浩《ひろし》、横山|主税《ちから》、海老名《えびな》郡司ら、いずれも家老の息子だが、軍事視察として、英仏へ派遣《はけん》して、むこうの軍隊組織と調練と武器を学ばせて居ったのだ。  この四隊のうち、白虎隊と朱雀隊は殆どが、羅紗《らしゃ》の筒袖で、ズボンをはいていた。青竜、玄武の両隊は、義経袴《よしつねばかま》に、草鞋《わらじ》がけだったらしい。  当時、こんな迷信があった。羅紗服をつけていると、たとえ弾丸に当っても、毒が体内に通らぬ、と。  かぶりものは、はじめは韮山笠《にらやまがさ》だったが、伏射《ふせうち》する際、邪魔になって照準《しょうじゅん》が合せられぬので、みな、ぬぎすて、白虎隊は、大たぶさに結いあげて、紫の元結《もとゆい》を用いたりして、つまり、今日の流行言葉を借りれば、カッコよかったものだ。  武器は、それぞれの差料を紐《ひも》で、肩から提げ、脇差《わきざし》をさし、仏蘭西製のヤーゲル銃を携えていた。火縄銃など、もはや、一挺《いっちょう》もなかった。  士風の伝統は古いが、軍の調練と武器は、最も新しかった、といえるな。  さて——。  会津軍は、朱雀隊、青竜隊が主力となって、東西南の三方面へ出陣し、怒濤《どとう》のごとく攻め寄せる薩長軍を迎撃した。  五月五日——端午《たんご》の節句の夜。  横山主税を隊長とする朱雀隊は、白河城を夜襲して、これを奪ったが、二日後、逆襲を受けて奪還された。横山主税は、壮絶な討死を遂げた。  その頃は、奥羽越同盟もまだ破れては居らず、各藩も解兵してはいなかったので、意気大いにあがっていた。  七月に入って、有栖川宮熾仁親王《ありすがわのみやたるひとしんのう》が会津征討大総督に専任して、奥羽二国の人民に勅諭が下された。その頃から、佐幕軍は、勢いが衰えはじめ、各藩ばらばらになって来た。  八月に入って、討伐軍は、主力をもって、保成峠を突破した。佐幕軍は、猪苗代《いなわしろ》に火を放って、日橋川の諸渡河点に於て、敵を拒止せんとしたが、薩摩の兵は、猛烈な勢いで突進して来た。  会津軍は、死力をつくして、闘ったが、ついに、天嶮《てんけん》を敵にゆだねて、戸ノ原口に退却を余儀なくされた。  会津軍|潰滅《かいめつ》の運命は、足早やに近づいてきた。  若松城下に残留しているのは、六十歳以上の老人と諸役人と君側護衛《くんそくごえい》の白虎隊のみとなった。  その白虎隊も、ついに、寄合白虎隊には、越後方面へ出陣の命令が下った。  士中白虎隊は、身分の高い藩士の子弟たちで、将来藩の重責を担う者たちと目されていたので、最前線へ投入することをしなかったのだ。  しかし、士中白虎隊の少年たちは、戦況が日毎に悪くなる報に接して、じっとしていられなくなった。  戦闘に加えられたい、という建議書を、国老に呈出して、その許可を待ち乍ら、じりじりしていた。  もうその頃には、戦闘員は欠乏し、最後の手段として敢死隊《かんしたい》という、職業の如何を問わず、職人でも僧侶でも百姓でも、年齢の制限もつけずに募集した二百名の隊まで編成して、東方面の戦場へ送っていた。また、促小屋《ずごや》という、今日でいう刑務所に収容していた囚徒《しゅうと》まで、ひき出して、槍を与えて最前線へ遣《や》っていた。  八月二十二日。  士中白虎隊にも、いよいよ藩主容保出陣ときまったから、戦場に進発せしむ、という命令が下った。少年たちは、欣喜《きんき》勇躍した。  ここで、白虎隊の少年たちが、どのようにして出陣して行ったか、述べておかねばならんな。  それぞれ、われわれの胸を打つ出陣であった。  有賀織之助《ありがおりのすけ》(十六歳)  京都|蛤御門《はまぐりごもん》に於て戦死した権左衛門の次男であった。  出陣に当り、母に挨拶すると、 「そなたは、忠臣と称《よ》ばれる人の子でありますゆえ、いやしくも生を偸《ぬす》んで家名をけがしてはなりますまいぞ」  と、いましめを受けた。  池上新太郎《いけがみしんたろう》(十六歳)  はじめ、父与兵衛にしたがって、中山峠|楊枝口《ようじぐち》で防戦に任じ、すでに弾丸をいくどもあびていた。白虎隊編成の命を受けて、帰還していたのだ。たまたま、その日、父もまた公事《くじ》を帯びて、帰城していたが、新太郎の出発に際して、 「戦場にあって、進む時は必ず先頭、退くには殿《しんがり》たれ。但し、妄進《もうしん》をなして軍紀に違《たが》うな」  と、いましめを受けた。  永瀬雄次(十六歳)  母は、山野の戦いに於ては、敵の目を避けることが大事である、と云って、草色の軍服をきせようとした。また、姉は、神前に供えていた勝栗《かちぐり》、大豆、胡桃《くるみ》、松葉をすすめた。戦に勝ち、まめで還れるように、というむかしからの作法だ。しかし、雄次は、「生還を期しませぬ」と云って、母と姉の心づくしを斥《しりぞ》けた。  簗瀬《やなせ》武治(十六歳)  父は病牀に臥《ふ》していた。武治を枕辺に呼んで、家宝の刀を与え、 「覚悟は?」  と、問うた。 「死あるのみでございます」  武治は、眉宇《びう》もうごかさずに、こたえた、という。  ところで、飯盛山《いいもりやま》で自刃して、幸いにも、蘇生《そせい》して、永く生きのびた者に、飯沼貞吉《いいぬまさだきち》がいる。  当時三十六歳。父時衛は、物頭を勤め白河口に出陣中であった。家には、母文子(雅号玉章《がごうたまずさ》・三十四歳)と若党藤吉が留守していた。  出陣に当り、母の前に両手をつかえると、母は、ものしずかな声音で、 「おん殿のご馬前で、身命を捧げる時を迎えて、栄誉この上もありませぬ。日頃のお父上の訓《おし》えをまもり、ひとたびこの家の門を出られたならば、生きて再び還るような卑怯《ひきょう》の振舞いはなりませぬぞ」  そうさとし、次の短歌を短冊《たんざく》にしたためて、渡した。   梓弓《あずさゆみ》向う矢先はしげくとも     ひきなかへしそ武士《もののふ》の道  飯沼家は、代々神道であった。  貞吉は、次いで、母の生家である西郷十郎右衛門の屋敷へおもむき、祖母に別れの挨拶をした。  祖母は、すでに、次の短歌をしたためた短冊を用意していた。   重き君かるき命と知れやしれ     おちの媼《おうな》のうへはおもはで  それから、祖母は、おだやかな声音で、 「武士が戦場に臨んだならば、決して逃げかくれてはなりますまいぞ。鉄砲で、敵を狙《ねら》う時は、必ず、臍《へそ》のあたりを狙うがよい。太刀撃ちをする時は、一歩も退かず、思いきって、斬り込み斬り込んでこそ、血路もひらけましょうぞ」  と、教えた。  他の少年たちの出陣も、これらと同じであったな。  おや——あんたは、どうも、不服げな顔つきだな。美談として語り継がれる出陣ばかりではなかったろう、という顔つきだな。これだから、小説家という奴は、カンが鋭くていかん。  左様——かたく秘めなければならぬ別れを母や親戚の娘と交して、出陣して行った少年も、二人ばかりいた。  その一人は、林|八十治《やそじ》(十六歳)であった。林家は、家柄はよかったが、外様で、十石三人|扶持《ぶち》の貧乏な軽輩であった。  用所役人であった父は城中に詰めて帰らず、母も病臥《びょうが》し、八十治は、幼い弟妹四人の面倒をみていた。  出陣の報を受けるや、病室に入って、母に別れの挨拶をした。母は、ただ、泪《なみだ》をうかべて、黙って頷《うなず》いてみせただけであった。  座敷には、弟妹四人が、目白押しに竝《なら》んで待っていた。  八十治は、上座に就くと、 「兄は、殿様のご馬前で、討死することになった。あとにのこるお前たちは、もし、お城が焼けたならば、わしのあとを慕うて、あの世へ参るのだ。よいな」  と、さとし、十二歳の次男へ目を当てて、 「その時、太市は、まず、母者を刺せ。できるか?」 「はい」 「それから、正太郎を刺せ」  三歳の三男を指さした。 「正太郎は、両手を合せて、なむあみだぶつ、をとなえるのだぞ、よいな?」 「はい」  幼児は、すなおに、こくりとした。 「それから、みつは、さきに、ちさを刺しておいて、自分を刺せ」  十四歳の長女に、六歳の次女を刺し殺すすべを教えておいて、 「太市は、みつを刺せ。それから、家に火を放って、死ぬのだ。わかったな?」 「わかりました」  八十治は、仏間に入って、仏壇に供えてあった主君から拝領の落雁《らくがん》を三方にのせて、もどって来ると、五つに割って、弟妹たちに与えた。  その後で、遠い親戚にあたる勘定役《かんじょうやく》中野平内の屋敷へ、挨拶におもむいた。  貧乏な林家は、中野家から、なにかにつけて、世話になっていたのだ。  中野平内は城内に籠って居り、屋敷には、その妻こう子(四十四歳)と娘竹子(二十二歳)及び優子(十六歳)がいた。  八十治が入った座敷には、こう子と優子がいて、長女竹子の姿は見当らなかった。  八十治は、こう子から、留守中のことは心配せぬように、と云われると、 「お世話の儀ご無用に願い上げます。ただいま、弟妹どもに、あの世へ参るすべを教えて参りました」  と、告げた。  挨拶をおわって、玄関を出た時、庭の木戸口に、長女の竹子が佇《たたず》んで居り、さしまねいた。  竹子は、黙って、八十治を、庭の一隅にある茶亭へともなった。  そこには、点前《てまえ》の用意がしてあった。  終始無言の点前がなされた。八十治が、楽茶碗《らくぢゃわん》をかえした時、竹子は、はじめて口をひらいた。 「そもじもわたくしも、いずれ、数日ならずして、この世を去ることに相成りましょう。国難に殉じることに、いささかの悔いもありませぬが、人と生まれて、為《な》すべきことを、ひとつだけ、わたくしどもは、知りませぬ。そもじも童貞、わたくしも処女。……人として、男女のまじわりを知って死ぬるのは、べつに、慙《は》ずべき振舞いではないと存じます」  二十二歳の娘は、十六歳の少年に、さわやかな声音で、そう云ったのだ。  八十治は、俯向《うつむ》いて、無言であった。 「八十治殿。わたくしとの契《ちぎ》りを、承知して頂きとう存じます」  竹子は、返事を促《うなが》した。  八十治は、顔を擡《もた》げて、竹子を視た。夢を見ているような気分であった。竹子は家中屈指の美貌《びぼう》の持主であった。かねて、八十治にとって、竹子は天女のような存在であった。  雲の上にいた天女が、自分のそばへ降りて来た、といっても誇張ではなかった。 「忝《かた》じけのう存じます」  八十治は両手を畳につかえた。  茶亭には、その茶室のほかに、広い十畳間が設けてあった。隠居所の目的で、つくられてあったのだ。  八十治が、しばらくの時間を置いて、その十畳間に入ってみると、すでに、竹子は、敷き延べた褥《しとね》の中に、横たわっていた。  八十治が与えられた白い寝衣をまとって、掛具をあげると、竹子は、一糸まとわぬ裸形で、両手を胸で組んでいた。  さて、もう一人の少年だが、これは、名を秘しておかねばならんだろう。  士中白虎隊が、城中三の丸に集合して、出陣を申し渡されたのは、午前七時であった。  出陣の時刻は、午後一時とさだめられていた。  その少年(十六歳)は、馬をとばして、わが家に帰って来た。  母一人子一人であった。父は、元治甲子の戦いで討死していた。  母は仏間にいた。  少年が背後に坐り、 「いよいよ、出陣の儀、うけたまわりました」  と告げたが、母は、その合掌《がっしょう》の姿勢を微動だにさせなかった。  半時間も経ってから、母は、おもむろに向きなおり、無表情で、 「この家の当主たるそなたに、母がはなむけは、ただひとつしかありませぬ」  と、云った。  平常、喜怒哀楽の表情を全く見せぬ母であった。 「天正のむかし、高遠城の仁科五郎信盛殿は、落城に際して、その母上より、貴いはなむけを受けて、相果てられました。なんであったと思います?」 「存じませぬ」 「その母上の操でありました」 「……」 「信盛殿は、母御を妻として抱かれたのち、相果てられたのです。わたくしも、その故事にならって、そなたの妻になろうと存じます」 「母上!」  少年は、あまりに意外な言葉に、かあっと全身が熱くなり、胸の鼓動が、早鐘《はやがね》のように鳴った。 「いやならばよいのです。……けれども、これは、けがらわしい行為ではありませぬ。死におもむくそなたに、母が贈るただひとつのはなむけです。父上の位牌《いはい》の前で、……父上のお許しを乞うて、そなたといとなみたく存じます。父上もお許し下さいましょう」 「は、はい!」  少年は、頷いた。  母は、起つと、夜具をはこんで来て、仏壇の前に、敷いた。  母も白|無垢《むく》、少年も白無垢の姿になって、相抱いた。  相抱いた瞬間、母は、「ああ!」と呻《うめ》くように一言|洩《も》らして、四肢に力をこめると、烈しく身もだえした。母が、はじめて、わが子に見せた本能のほとばしるままの、虚飾をかなぐりすてた姿であったのだ。  五  午後一時、松平|容保《かたもり》は、白虎隊一番中隊、二番中隊を率いて、鶴ヶ城を、出発した。  これを見送る老幼婦女は、すべて、双眸《そうぼう》を潤《うる》ませた。  午後二時、約四|粁《キロ》の行程を終えて、竜沢《たつさわ》村に到着した。その時、一騎が、戸ノ口原より疾駆して来て、 「敢死《かんし》・遊撃《ゆうげき》・奇勝《きしょう》の三隊が、死守に努めて居りまするが、なにさま、敵兵|夥《おびただ》しく、戸ノ口原にあふれ出て、味方の危機は、将《まさ》に迫らんとして居りますれば、何卒、応援隊を——」  と、乞うた。  容保は、白虎隊二番中隊に向って、 「戸ノ口原へ!」  と、命じた。  白虎隊二番中隊は、滝沢峠を越え、金堀《かなぼり》、強清水《こわしみず》を経て、一里余を進んで、戸ノ口に向い、やがて、晩鴉《ばんあ》が塒《ねぐら》に急ぐ頃、目的地に至った。  霖雨《りんう》が、小止みなく降りつづいていた。  白虎隊は、兵糧の用意がなかった。そこに露営している敢死隊から握り飯一箇|宛《あて》もらったばかりであった。  敢死隊と別れて、松林に蔽《おお》われた小高い山中に入った時、指揮の日向《ひゅうが》内記が、 「腹が空《へ》っては、いくさは出来ん。敢死隊に相談して、朝食を都合して来るからお主らは、ここで待って居れ」  と、云い置いて、ひきかえして行った。  日向内記は、しかし、暁になっても、帰って来なかった。後日、日向内記は、このため、生を偸《ぬす》み、難を避けたのではないか、と非難された。累代七百石の高祿を食《は》んだ日向内記に、その卑怯はなかった。敢死隊も、すでに糧食が尽きて居り、やむなく、内記は、滝沢峠を越えて、糧食を求めに行ったため、おくれたのだ。  隊長帰還せずと知った教導|篠田《しのだ》儀三郎(十七歳)は、 「ただいまより、不肖篠田が、隊長に代って指揮をとる」  と、告げた。  白虎隊と薩長軍の遭遇《そうぐう》は、午前七時、戸ノ口村入口附近の田圃《たんぼ》上であった。  雨はあがっていたが、霧が、視界をとざしていた。 「敵だっ!」  少年の一人が叫ぶや、教導篠田の指令も待たず、白虎隊一同は、夢中で、ラーゲル銃の引金を引いた。  それが、敵勢に、その位置を教えてしまった。  半時間も経たぬうちに、白虎隊は、包囲され、雨霰《あめあられ》の弾丸をあびた。 「退却っ!」  教導篠田は、絶叫して、彎曲《わんきょく》した溝《みぞ》の中を奔《はし》り出した。これにつづく者は、半数に満たなかった。  敵軍の重囲の中を遁《のが》れ遁れるうちに、少年たちの心中には、斉《ひと》しく、空しくここで屍を曝《さら》すより、帰城して、君公と生死を共にしたい、という気持が一致した。  西川勝太郎(十六歳)が、それを口にして、一同は、賛成し、笹山方面の銃声がしだいに西に移るのをきいて、退路を遮断されていると知って、本街道の南側に出て、山間|渓谷《けいこく》にもぐった。  この辺の地形を知っている者は、一人もいなかった。  そこで、城はあちらだ、と見当をつけて、遮二無二《しゃにむに》、渓谷を渡り、山嶽を攀《よ》じた。  飢餓と疲労で、くたくたになって、辿りついたのが、滝沢白糸神社の上であった。  ほっと一息ついて、猪苗代湖より若松に通ずる疏水《そすい》の洞門口《どうもんぐち》から、本道に入ろうとした。  その時、討伐軍が、滝沢旧道の坂路を行軍中であった。  これを友軍と思いまちがえた少年たちは、一斉射撃をあびた。  永瀬雄次は、腰部に貫通銃創を蒙《こうむ》って、地面を一回転した。一同は、これを扶《たす》けて、疏水洞門の内に逃げ込み、水路を徒渉《としょう》して、弁天祠の傍に出て、そこから、仁王門の南側の土手の上の小径を、流れに沿うて登り、飯盛山に出たのだ。  その時、彼我の軍勢は、会津城下で、激突のさなかであった。  城下のいたるところから、火の手があがり、銃砲はとどろきわたり、鶴ヶ城もまた黒煙の中に包まれていた。  天守閣も、いまに、紅蓮《ぐれん》の舌になめられて、焔《ほのお》をはなつかと思われた。  十九人の少年たちの気力も、ここに尽きはてた。  教導篠田儀三郎は、一同の顔面に、すでに覚悟の色が刷《は》かれているのを視て、「死のう」と云う代りに、突然、声さわやかに、文天祥の零丁洋《れいていよう》の詩を、朗吟《ろうぎん》しはじめた。 「人生|古《いにしえ》より誰か死なからんや、丹心《たんしん》を留取《りゅうしゅ》して、汗青《かんせい》を照さん」  儀三郎が誦し終わった時、石田和助が、 「手疵《てきず》が苦しゅうてならぬから、お先にごめん」  と、云いおいて、両肌を脱いで、刀を腹に突き立てて、見事に、真一文字にかき切って、俯伏《うつぶ》した。  儀三郎が、つづいて、咽喉《のど》を貫いて、仆《たお》れた。  飯沼貞吉は、脇差を抜いて、咽喉に突き立てたが、どうしたのか、通らなかった。やむなく、かたわらの岩石に、脇差の柄頭《つかがしら》をあておいて、切先を血汐の憤《ふ》く傷口に刺し、両手で、岩石の両側に生えた蹲躅《つつじ》の枝をひっ掴《つか》んで、 「うむっ!」  と、咽喉を突出した。そして、そのまま人事不省に陥った。この飯沼貞吉は、足軽白虎隊のわが子を捜しもとめて、飯盛山に登って来た印出八郎の母親に救われ、一命をとりとめたのだ。飯沼は、後に名を貞雄と改め、逓信省《ていしんしょう》技師となり、七十余歳の高齢を全うして、仙台|薙刀《なぎなた》町に逝《い》った。  左腕を手負うていた有賀織之助は、林八十治を呼んで、たがいに刺しちがえて死なんと、対坐した。  倶《とも》に、切先を対手《あいて》の胸に擬《ぎ》した瞬間であった。  林八十治が、不意に、有賀織之助に、 「お主、まだ、童貞ではないか?」  と、訊《たず》ねた。  すると、なぜか、織之助の顔面がこわばり、頬の筋肉が烈しく顫《ふる》えた。  そして、険しい声音で、 「む、むだな問いは、措《お》けい!」  と、叫びざま、八十治の胸を刺した。 「うむ!」  痛みを怺《こら》えて、八十治は、織之助の咽喉を刺した。  八十治は、しかし、胸を刺されただけでは死にきれぬ、とさとると、かたわらの、野村駒四郎に、 「か、介錯《かいしゃく》を!」 と、たのんだ。 「心得た」  駒四郎は、懸声《かけごえ》もろとも、八十治の首を刎《は》ね落しておいて、おもむろに、腹をくつろげた。  つづいて、井深茂太郎、石山虎之助、伊藤俊彦、池上新太郎、伊東悌次郎、西川勝太郎、津川喜代美、簗瀬勝三郎、簗瀬武治、間瀬源七郎、安達藤三郎、鈴木源吉、津田捨蔵が、それぞれ、あるいは刺しちがえ、あるいは切腹し、あるいは咽喉を貫いて、仆れた。  六  一方——、白虎一中隊は、北出丸追出門を守っていたが、主君容保が帰城するや、もはや思いのこすことはない、と塁《るい》に登って、敵勢の来るのを待ちかまえた。  薩長軍は、やがて、怒濤のごとく、そこへ襲来した。  忽ち、そこは、一大|修羅場《しゅらば》と化した。  白虎隊をかばって、七十歳以上の玄武隊の老人槍隊が、追出門から奔り出て来て、 「わしらが、突入する隙《すき》に、塁をすてよ!」  と、云いのこしておいて、猛然と、敵陣へ疾駆して行き、みるみるうちに、バタバタと仆れた。  白虎隊は、幾人かが討死し、幾人かが負傷し、ついに、隊員は二分して、一隊は城へ遁《に》げ込み、残り十七名は愛宕山《あたごやま》の東南の墓地へ遁《のが》れて来て、城下の惨状を顧て、絶望し、一同鶴ヶ城を拝して、自刃《じじん》せんとした。  この時、田中土佐の家臣某が、主人の首級を携えて、田中家の墳塋《ふんえい》にそなえるべく、馳《は》せて来て、この光景を眺めて、愕然《がくぜん》となり、少年たちを、慰諭して、ひとまず、城へ戻るようにすすめた。もし、この下士がそこに至らなかったならば、白虎隊一中隊もまた、飯盛山の惨劇を演じたに相違いない。  ところで——。  会津戦争は、白虎隊の悲壮な最期が、あまりに、喧伝《けんでん》されすぎているが、それよりも、悲惨をきわめたのは、藩士家族の殉難だ。  八月二十三日夕刻、討伐軍は、天神橋方面から、まさに三の丸に侵入せんとした。  城中に在ったのは、近侍、馬廻りのほかは、警鐘によって入城した老幼・婦女子ばかりであった。  落城は、時間の問題となっていた。  この日の戦争が、戊辰戦争中、最も激烈であったのだ。会津藩士の討死者は、この日だけで、四百六十余名の多きに達していた。  そして、また、この日、藩士家族二百三十余名が、殉じた。  難を城中に避けて生を貪《むさぼ》るに忍びずとか、城中にあって壮者の行動を妨げ、食糧を費消するに堪《た》えずとか、あるいは、城外に遁れて敵のために恥辱《ちじょく》を受けるのを潔しとせずとか——それぞれの理由によって、自刃したのだ。  朱雀寄合組二番中隊頭・西郷刑部(七百石)の妻糸子(二十七歳)は、死|装束《しょうぞく》をして、邸宅に火を放ち、まず長男精一郎(二歳)及び長女かね(五歳)を刺殺し、刑部の母いは子(五十一歳)及び妹すが子(十九歳)の介錯《かいしゃく》をしたのち、従容として、咽喉を突いて、相果てた。  家老西郷頼母(千七百石)の家族は、一族二十一人|悉《ことごと》く刃《やいば》に伏して、最期を遂げた。頼母の妻千重子(三十四歳)は、衣服をあらためて、外祖母及び頼母の母律子(五十八歳)に告げたのち、自室に入って、義妹四人及びわが子三人と、水盃を交《かわ》したのち、   なま竹の風にまかする身ながらも     たゆまぬ節はありとこそまけ  という辞世をしたためたのち、懐剣《かいけん》を抜いて、九歳の長女|田鶴子《たずこ》をひきよせて、その胸を抉《えぐ》った。  次女|常磐《ときわ》(六歳)は、この惨たる光景に、怯《おび》えて、慟哭《どうこく》しはじめた。  千重子は、常磐を抱きあげ、 「そなたも、もののふの子ではないか、卑怯な泣き声をたててはなりませぬ」  と云いおいて、ひと刺しの下に、斃《たお》した。  さらに、千重子は、二歳の嬰児《えいじ》を抱きあげたが、無心なその笑顔に、母は、胸が迫って、手さきがにぶった。  しかし、意を決して、嬰児を刺しておいて、その衂《ちぬ》れた懐剣を逆手に持ちかえて、咽喉を突いて、俯伏した。  義妹四人も、おのおの懐剣で、咽喉を貫いて、見事に自刃した。  頼母の母律子は、奥の居室で、色紙に、   秋霜飛兮金風冷   白雲去兮月輪高  と記して、外祖母ほか十名の婦女子・幼児とともに、悲壮な最期を遂げた。  討伐軍が大手門に迫った時、土佐藩士中島信行は、数名の部下とともに、西郷邸へ入って、この惨たる光景を目撃して、言葉もなく、茫然自失《ぼうぜんじしつ》した、という。  その折、まだ十六七歳の少女が、俯伏していたが、未だ絶息しきれずに、苦しい顔を擡《もた》げて、視力を喪《うしな》った眸子《ひとみ》を張って、敵か味方か、と問うた。  中島信行は、いつわって、 「味方だぞ!」  と、抱きあげてやった。  すると、少女は、 「な、なにとぞ、ご介錯を——」  と、たのんだ。  中島は、やむなく、その首を刎《は》ねて、暗然としつつ、去ったそうな。  他の藩士家族も、こういうあんばいに、一人のこらず、壮烈な自刃を遂げたのであった。  ところで——。  士中白虎隊林八十治と処女と童貞の契りをむすんだ中野竹子の最期も、あっぱれであったな。  会津藩士の子女は、城下に危急が迫るや、坐視《ざし》するにしのびず、蹶然《けつぜん》として起《た》って、一団を組織して、緑の黒髪を剪《き》り、義経袴《よしつねばかま》をはき、白鉢巻《しろはちまき》をしめ、一刀を帯び、薙刀を小脇にかい込んで、軍事方に従軍を歎願した。  軍事方は、後日になって会津藩は防戦に窮して、婦女子までも駆り集めた、と世人に嘲《あざけ》られては、末代までの名折れになる、と諭したが、娘子《じょうし》軍は、肯《き》き入れなかった。  軍事方は、やむなく、娘子軍を、旧幕府歩兵頭・古屋佐久左衛門の率いる衝鋒隊《しょうほうたい》に加えた。  二十五日——。  衝鋒隊は、若松の西端涙橋より、討伐軍の陣営を襲った。  この時、中野竹子は、   もののふの猛《たけ》き心にくらぶれば     数にも入らぬ我身ながらも  という自詠の短冊を、薙刀にむすびつけて、加わっていた。  竹子は、薙刀を黒河内伝五郎に学び、また居合抜きも堂に入っていたのだ。  国老|萱野権兵衛《かやのごんべえ》の一隊が、米沢街道方面より出て、猛襲したため、討伐軍の旗色が悪くなり、浮足立ったところを、娘子軍は、薙刀を揮《ふる》って、乱入した。その先頭に、竹子は立っていた。  討伐軍の隊長たちは、正面を衝いて来た敵が、娘子軍であるのを視て、 「殺すなっ! 生捕《いけど》りにせい! 女子を殺すは、恥だぞ!」  と、連呼した。  これに応えて、娘子軍は、 「生捕られるな! 生捕りの恥辱を受けるなっ!」  と、叫びかわして、敵陣ふかく突入した。  やがて、竹子はキリキリ舞いして、倒れた。敵弾二発をくらったのだ。  討伐軍の兵隊が、その顔をのぞき込んで、 「ほう——大層な別品《べっぴん》ではないか。あら、もったいなや」  と、云ったとたん、馳せ寄った娘子の一人に、袈裟《けさ》がけに斬られて、ひっくりかえった。  それは、竹子の妹の優子であった。  優子に抱きあげられて、意識をとりもどした竹子は、 「介錯を!」  と、たのんだ。  優子は、竹子を坐らせておいて、薙刀を一閃《いっせん》して、その首を斬り落した。  なんとも、悽愴《せいそう》をきわめた光景であったのだ。  鶴ヶ城が、降服したのは、それから一月後の九月二十四日であったが、その開城をいさぎよしとせずに、自刃した者|尠《すくな》くなかった。  その中には、婦人までも交っていた。   君主城上建降旗   妾在深宮何得知  と、奥御殿の白壁に記して、懐剣で咽喉を刺して、相果てた、という。  まことに悲壮な振舞いだが、こういう烈婦に育てられると、白虎隊も生れようというものだな。  藩士大田某の一子建夫は、わずか八歳の少年だったが、開城に際して、悲憤して、父が授けた一刀で、腹を切って死んだそうだが、こうなると、中共の紅衛兵も三舎を避けるのではないかな。  かよわき婦女子・幼童といえども、教育しだいで、鬼神もおそれぬ行動をする好見本のようなものだ。  会津藩の母親たちに比べれば、今日の教育ママなどという奴は、屁《へ》みたいなものだ。そうだろう。  ま——今日は、これぐらいにしておこう。次は、どういう話をするか、鼻クソでもほじくり乍ら考えておこう。  上野|彰義《しょうぎ》隊  一  上野彰義隊、というと、寛永寺《かんえいじ》一日の雨に敗れ去ったとはいえ、三河武士の骨法をして、百年の後世まで、情緒《じょうしょ》に激して響かせて居る、ということになっている。  はたして、そうか? (等々呂木神仙《とどろきしんせん》は、聞き手「柴錬」を前にして、コップ酒をぐいぐいと飲み乍ら、語り出した)  明治の末年に、山崎有信という人物が、「彰義隊戦史」という本を出している。その序に、生き残りの隊士池辺|義象《よしかた》が、書いているな。 『我は、逆臣にあらず、主家に対して義を尽せるのみ』  たしかに、そうであったろう。  ところが、わしの調べたところでは、彰義隊を結成する動機に、ただ尽忠報国《じんちゅうほうこく》の赤心の発露だけでないものがあるのだな。  鳥羽伏見《とばふしみ》の戦いに敗れて、朝敵となった徳川|慶喜《よしのぶ》が、江戸へ遁《に》げ戻るや、激憤慷慨措《げきふんこうがいお》く能《あた》わざる幕臣らは、このまま、無念の泪《なみだ》をのんで、ひきさがるのをいさぎよしとせず、決起した。檄文《げきぶん》がとばされ、最初は、十数名だったのが、次第にふくれあがって、ついに二千余名になった。  当然の趨勢《すうせい》であったわけだ。  問題は、檄文によって集合した三十余名のわずかな頭数による彰義隊結成に当り、その頭取《とうどり》となった渋沢成一郎という人物の肚《はら》の裡《うち》なのだな。  彰義隊という名称は、慶応四年二月二十三日、浅草本願寺に於て、定められた。  集る者百三十余名。   頭取・渋沢成一郎。   副頭取・天野八郎。   幹事・本多敏三郎、伴門五郎、須永|於菟之輔《おとのすけ》。  この時、副頭取、天野八郎以下百三十余名の心中には、 「社稷《しゃしょく》危急存亡の秋《とき》、臣子尽忠報国は士道の常。吾が主君が伏罪して天裁を待たれるのを、臣子たるもの坐視《ざし》するにしのびず、すみやかに上京して、闕下《けっか》に哀訴し、その罪を宥《ゆる》めんとする」  という名目をたてて、憎むべき敵|薩長《さっちょう》と華々しく一戦を交えて、あわよくば打倒してくれよう、という闘志が燃えていたのだ。  しかし、ただ一人、渋沢成一郎だけは、別の心算《しんさん》を、秘めていた。  渋沢成一郎は、結成にあたって、 「もし、主君に死を賜《たま》わるような事態を迎えたならば、機先を制し、主君を擁《よう》して日光に趨《はし》り、祖廟《そびょう》を枕にして戦おうではないか」  と、主張した。  肚の中で、本当に、そう考えていたかどうか、疑わしい。  しかし、天野八郎の方は、この渋沢の主張を、額面通りに受けとって、 「錦旗《きんき》に反抗して、祖廟に血を流すのは、主君のご意志にあらず」  と反論して、まっ向から対立した。  つまり、彰義隊を結成したとたんに、二派に分裂してしまった。  渋沢派は、浅草本願寺に残り、天野派は、輪王寺宮《りんのうじのみや》守護の名目で上野に入った。  実は、渋沢成一郎というのは、端倪《たんげい》すべからざる智能をそなえた男であったのだな。  渋沢成一郎は、武州《ぶしゅう》大里郡八基村の生れで、生家は豪農だった。  成一郎は、生来頭脳が、剃刀《かみそり》のごとく切れたので、幼い頃から、百姓をきらって、大きな夢を、心中に抱いた。  八歳の時に、父親が、田植えの手伝いをさせようとすると、いやだと拒否した。父親が憤ってその手を掴《つか》んで、甲に灸《きゅう》をすえようとすると、 「乱暴《むこ》をされるな。わしのこの手は、天下を取る手じゃ」  と、云った、という。  田植えを手伝うより、武芸を好んで、夢中になった。  徳川慶喜が、一橋公であった時、従弟の渋沢篤太夫(のちの栄一)とともに、平岡円四郎の斡旋で、仕えた。  慶喜が、将軍職を襲うと、擢《ぬ》かれて、奥|右筆《ゆうひつ》御政事内務掛となった。まだ、二十六歳の若さであった。  慶喜が、政権を天皇に還《かえ》そうとするや、成一郎は、面を犯して、強硬に反対した。  鳥羽伏見の戦いの時には、君命によって、京師《けいし》にあったが、幕軍が大敗するや、大阪に趨《はし》った。  その時、成一郎の運命が、決定した。  二  一朝、大廈《たいか》が顛《たお》れかかると、秩序というものは忽《たちま》ち失われてしまう。  鳥羽伏見の戦いで、幕軍が総敗退するや、慶喜は、大阪城に在ることの不利をさとって、軍艦開陽丸で、江戸へひきあげてしまった。  そのあとの大阪城は、滅茶滅茶の混乱状態に陥った。  城代牧野貞明が、まず、遁走《とんそう》してしまった。あとは、目付と従目付だけが、城をまもることになったが、敗走して来た幕兵らに、下知《げじ》をゆきわたらせることも困難なありさまで、せいぜい、本丸大玄関へ土足で上って来る者を叱咤《しった》したり、いつの間にか、黒《くろ》書院にあがり込んで、うろうろと、盗心を起して物色している者を、追いはらうだけだった。  渋沢成一郎が、大阪城に入って来たのは、そうしたさなかだったのだな。  成一郎は、直ちに、勘定《かんじょう》奉行小野|内膳正《ないぜんのしょう》に会い、 「御金蔵の鍵をお渡し頂こう」  と、申し出た。 「どうなさる?」 「軍用金をのこらず、江戸へはこび申す」  内膳正は、ためらった。  すると、成一郎は、厳然とした態度で云ったものだ。 「薩長は、明日うちにも、この大阪城へ攻め寄せて参ろう。その目的は軍用金奪取にある……。浮世の事は、まず先立つのが金。薩長が、いま一番苦しんでいるのは、軍資金の調達だ。わしが調べたところでは、このたび京師へ攻め入って来るに際して、小野、三井、島田ら町人にたのんで、やっと一万両を調達して居る。彼奴《かやつ》らは、金に飢えて、喘《あえ》いで居る。この大阪城の金蔵に、目をつけぬ筈がない。是が非でも手に入れようと、躍起になって居るに相違ない。……愚図愚図《ぐずぐず》しては居れぬ。今夜のうちにも、運び出さねば相成らぬ」  そう説かれて、内膳正も、|ほぞ《ヽヽ》をかためた。 「お渡しいたそう」 「どれくらいあろうか?」 「小判で二五万両、二分金で六万両、そのほか、銀銭、青銅銭あわせて一万両あまりと存ずる」 「想像していたよりすくないが、やむを得ぬ」 「しかし、どうやって、運び出されるのか? 敗兵らに運ばせれば、盗んで逃亡する懸念《けねん》がござるが……」 「わしにまかせて頂こう」  成一郎は、馬を駆って、城外へとび出して行ったが、やがて、黄昏刻《たそがれどき》、二十人あまりの人足をつれて、戻って来た。  人足の装《なり》をしているが、目つき、身ごなし、言葉遣いから、博徒と知れた。  大阪の市中で、最も大きな縄張りを持つ難波屋藤次の乾分《こぶん》どもだった。  成一郎は、難波屋藤次とは、旧知であった。そして、幕臣中の誰よりも、この博徒の方が信頼できたのだ。  武士から信義が失われ、博徒の親分に任侠があって、信頼できるとは、皮肉だった。  難波屋藤次は、成一郎のたのみを二つ返辞で引受け、乾分の内から二十人をえらび、 「お前らは、公方《くぼう》様のお金をお運びするんだぞ。もし欲心を起こして、持ち逃げでもしようものなら、日本中どこへかくれようと、草の根を分けても捜し出して、目ン玉をくり抜いて、舌を切るぞ。わかったか」  と、申し渡したものだった。  成一郎が、運び人足に、博徒をえらんだのは、賢明だったのだな。  その夜のうちに、二十五箇の千両箱、二分金を詰めた鎧櫃《よろいびつ》、それに徳川家重代の刀剣その他の貴重な品が、大阪城から担《かつ》ぎ出され、八軒屋まで運ばれた。  八軒屋から、苫船《とまぶね》に積み込むや、成一郎は、そのまま、博徒たちも、乗せた。  大阪城は、その翌々日、薩長勢から砲撃を受けた。不幸にして、青屋口の焔硝蔵《えんしょうぐら》に砲弾が落ちて、大爆発を起して、たちまち、城内は燃えあがり、天守閣もまた、紅蓮《ぐれん》の舌になめつくされた。  大阪城の軍用金は、間一髪《かんいっぱつ》の差で、無事に、かわされたわけであったが、奇怪なことに、その軍用金二十七万両は、蒸気船明光丸で、品川沖まで運ばれ、博徒二十人の手で陸揚げされて、勘定奉行|小栗上野介《おぐりこうずけのすけ》の前に置かれた時には、千両箱は十五箇に減っていた。  小栗上野介は、強硬な主戦論者だった。フランス公使レオン・ロッシュから、銀六百万両と軍艦数隻を借り受けて、まず長州を討ち、さらに、薩摩を倒す計画を樹てていたので、思いがけぬ軍用金の到来に、大悦びした。  成一郎は、下って来ると、おのが屋敷に泊めている大阪博徒たちに、 「今日より、お前らは、わしの足軽となって、生死を倶《とも》にする」  と、宣告した。  しかし、それから三日後、陸軍奉行兼勘定奉行小栗上野介が、罷免《ひめん》され、主戦派は総退陣した。  そして——。  浅草本願寺に、彰義隊が結成され、渋沢成一郎が頭取となり、天野八郎が副頭取となり、忽ち二派に分れた、という次第だ。  三  渋沢成一郎が、二十七万両と博徒二十人を苫船にのせて、和歌ノ浦から、由良ノ港へ至り、数日滞在して、蒸気船明光丸に移り、忍《おし》の城主松平|下総守《しもうさのかみ》、参州吉田城主松平伊豆守、上総《かずさ》大滝の城主松平|豊後守《ぶんごのかみ》とともに、三州吉田沖に錨《いかり》を下すまでは、はっきりしている。  成一郎は、そこから、東海道を下って、帰府している。そのあいだに、どこかへ十二万両という大金を、隠匿《いんとく》したのだな。  おもしろいのは、副頭取天野八郎と決裂してからの、成一郎の行動だ。  成一郎は、次のような檄文を草した。 『君公を擁《よう》して、薩長賊と一戦を交えることは既に決したりとはいえ、江戸に於て戦うは不利ゆえ、厳粛の軍令を布いて日光に退かんとす。けだし要害の地を撰ぶにあらざれば、到底成功すること能《あた》わざればなり。而《しこう》して、之を為《な》さんとせば、まず金穀の用意なかるべからず。府内外の商戸は、よろしくその援助を為すべし』  そして、それを富豪たちに配った。  すでにこれまで、たびたびの御用金を申し渡されている商人たちは、到底受けがたいと、上野の彰義隊へ訴え出た。  天野八郎は、激怒して、夜半、隊士三十名を率いて、成一郎を屋敷に襲った。  就寝していた成一郎は、一斉に踏み込まれて白刃に包囲されたが、平然として、 「昨日の味方を斬るのか?」  と、天野八郎を仰いだ。 「彰義隊は、尊皇恭順の有志をもって組織されたもの。いわば、江戸町民を守護し、暴徒を取締る御用を仰せつけられた軍勢ではないか。それをなんぞ、かえって、町民を苦しめて、金子《きんす》を徴発するとは——断じて、許せぬ暴挙だ」 「軍資金がなくして、どうして、薩長を対手《あいて》に闘えようか」 「さりとて、御膝元の町民を苦しめるのは、許せぬ」  天野八郎は、成一郎をひきたてて、谷中元王寺の方丈に監禁した。  しかし、夜明けには、成一郎は、そこを脱出していた。博徒二十人が救いに来たのである。  成一郎が一時身をひそめたのは、輪王寺宮家の奥家老奥野左京宅だった。  博徒のうち、重《おも》だった者たち数人が、成一郎の前にかしこまって、 「旦那は、あれだけの大金をかくしておいて、まだ、足りないと仰言《おっしゃ》るのですか?」  と、問うて来た。  成一郎は、笑って、 「わしが、大阪城の軍用金を運んで来たことは、すでにひろく知れわたって居る。その上前をはねたのではあるまいか、と疑う者もすくなくはない。わしが、無一文であることを知らせるには、こうするよりほかはあるまい」  と、こたえた。 「じゃ、かくした軍用金は、いったい、どうなさるので?」 「お前らに教えても、いまは納得できまい。わしに従って、命ずる通りに働いてくれるうちに、やがて、おのずと判る」  博徒たちは、それ以上、問い詰めることはできなかった。  渋沢成一郎という男は、不思議な魅力をそなえていたらしい。その手足となって動くうちに、博徒どもは、魅入られたようになった模様だ。  翌朝——。  突如として、奥野宅を天野八郎配下の寺沢正明が、隊士五名をひきつれて、急襲して来た。  その闘いで、博徒八人が、斬られた。  成一郎は、身をもって遁れ、青梅へ趨《はし》って、甲州の博徒の親分黒駒勝蔵を呼び寄せ、弁舌をふるって、説き伏せ、飯能に振武隊を結成した。  一方——。  天野八郎は、急速にふくれあがった彰義隊を、組織化し、左のごとき態勢をととのえた。   頭——小田井蔵太、池|大隅守《おおすみのかみ》   頭並——天野八郎、菅沼三五郎、春日左衛門、川村敬三   頭取——吉田定太郎、伴門五郎、織田主膳、本多敏三郎  これにつづいて、頭取並(本営詰)、会計掛、記録掛、器械掛。  一組二十五人として、組頭を置き、一番隊から十八番隊まで、それぞれ、上野山内の三十六坊に屯集させた。  これが、評判を呼ぶや、加盟者はいよいよ加わって、三千を越えることになった。  本隊に附属して、さらに、遊撃隊、歩兵隊、砲兵隊、純忠隊、臥竜《がりょう》隊、旭隊、万字隊、松石隊、神子隊、活気隊、高勝隊、水心隊が組織された。  軍規をきびしくし、秩序整然として、一隊ずつ、交替で、市中|巡邏《じゅんら》の任をつとめたので、公方様を唯一無二の偉い方とあがめ、その膝元に住むことを自慢にしていた江戸っ児たちも、ようやく、ひそめていた息苦しさから解かれて、 「やっぱり、旗本八万騎は、江戸を守って下さるんだ」  と、悦んで、どこでも、大いにもてなした。  四  慶応四年四月四日、江戸城は、ついに官軍のために開かれた。  勅使橋本|実梁《さねはる》は、田安慶頼、大久保一翁ら幕臣を居|竝《なら》ばせておいて、勅書を読んだ。 「慶喜《よしのぶ》こと、去る十二月、天朝を欺き奉り、あまつさえ、兵力を以て皇都を犯し、連日錦旗に発砲し、重罪たるにより、追討のため官軍さしむけられ候ところ、だんだん真実恭順の意を表し、謝罪申出るについては、祖宗以来二百余年、治国の功業少からず、ことに水戸大納言、勤王の志業浅からず、かたがたにて、格別の思召あらせられ、左の条件実行相立ち候上は、寛典に処せられ、徳川家名立ち下げられ、慶喜、死罪一等これを許さる、水戸表へ退き、謹慎罷《きんしんまか》りあるべきこと」  それから、六日後、上野東叡山の大慈院の狭い一室で恭順謹慎していた将軍慶喜は、早朝、そこを出て、水戸に向った。  黒木綿の羽織に、小倉白縞の袴《はかま》、麻裏草履《あさうらぞうり》の姿であった。慶喜は、上野の山内は、徒歩で進み、黒門口で、駕籠《かご》に乗った。  彰義隊と官軍が、戦闘の火ぶたを切ったのは、それから恰度《ちょうど》、一月後の払暁《ふつぎょう》だ、そして、夕刻——午后四時すぎには、勝負はついた。あっけない戦争だった。  いわば、犬死にひとしい最期をとげたわけだが、彰義隊一人一人の行跡を尋ねてみると、それぞれが、その動乱期を必死に生き、闘って、果てて居るんだな。  その幾人かを、挙げておこう。  第八番隊に属する内田安次郎は、旗本のうちでも微祿であった。ある時、知己である岡島藤之丞に出会うと、話しているうちに、幕軍撤兵頭大平備中守のことをきかされた。  備中守は、小栗上野介の親族で生来の傲慢不遜《ごうまんふそん》が年齢とともに昂じ、部下を倒すに悪鬼のごとく苛酷《かこく》で、あまつさえ、撤兵頭の地位を利用して、御用商人からかなりの賄賂《わいろ》を取って私腹をこやしている、という。 「よし! 大平備中を、彰義隊にひきずり込んでやる」 「備中が入るわけがあるまい」 「その時は斬る!」  内田安次郎は、岡島の案内で、神田猿楽町の大平邸へおもむき、面会を求めた。  書院で、対坐するや、内田は、すぐにきり出した。 「いま天下の形勢は、安閑として坐視するべき秋《とき》ではありませぬ。撤兵頭たる貴下には、よろしく彰義隊に入って、その指揮をとられるべきかと存じます。貴下が、従来部下を遇することの峻厳《しゅんげん》は、きこえて居りますが、その裏面に於て、不正の金銭を貯えて居る事実もまた、何人《なんぴと》も知るところ——。いまにして、改悟されないと、近いうちに、自らを裁かねばなりますまい」  備中守は内田の面上にみなぎる覚悟の色を看てとるや、  ——ただではひきさがるまい。  と合点し、いきなり、懐中にしていた短銃を抜き出して、 「曲者《くせもの》!」  叫びざま、つづけて二発放った。  一発は肩に、一発は胸にくらったが、内田は、屈せず、 「天誅《てんちゅう》!」  一喝《いっかつ》とともに、抜き討った。  備中守は、あやうく切先をのがれて、何か絶叫しつつ、廊下を奔《はし》った。内田は、これを追って、用人部屋へ遁げ込もうとした備中守の背中へ、一太刀あびせた。  備中守も屈せず、脇差《わきざし》を抜いて、内田の腹部を刺した。  そこへ駆けつけた岡島藤之丞が、備中守を仕止めた。それを見とどけて、内田は、微かに頷《うなず》いてみせて、事切れた、という。  彰義隊士には、年少の旗本も、多かった。  石神|鐺之助《とうのすけ》は、わずか十六歳だった。湯島に生れ、家代々|徒士《かち》であったが、父彦五郎が、徒士から擢《ぬきん》でられ、累進して、徒士目付、勘定役から、代官になり、丹後や但馬や越後を歴駐した。わが子を薫陶《くんとう》するに、つねに、楠公の遺訓を以てした。  鐺之助は、文久三年、江戸へ帰って、桜井広八郎の門に入って、漢学を学び、異数の秀才のため、門弟中からえらばれ、昌平黌《しょうへいこう》に入り、慶応二年には、築地海軍所の生徒を命じられた。たちまち、英語をわがものにした鐺之助は、運用航海の術を、英人教授に受けて、海軍士官に登用されることを約束された。  その時、戊辰《ぼしん》の乱が起った。鐺之助は、進んで、彰義隊に入り、十六番隊に編入され、戦火が起るや、山王台を守り、防戦につとめるうちに、山下料理店|雁鍋《がんなべ》の楼上《ろうじょう》から放たれた敵弾に中《あた》って、討死した。  その屍体のかたわらには、英語辞典が落ち、雨に濡《ぬ》れていた、という。  このような純潔無垢の少年隊士が、戦死者の幾割かであったのだ。  ところで、色模様の方は、どうかというと、江戸を守ろうと決起した彰義隊士が、女にもてぬ筈がない。  吉原や深川では、隊士らは、金がなくても、二日も三日も流連《いつづけ》させてもらえた。  吉原の稲本楼という大籬《おおまがき》で、錦絵にもなっているお職の小稲が、彰義隊八番隊毛利秀吉の美丈夫ぶりに一目惚れして、艶文を、その屯所である山下の下寺《しもでら》泉竜院へ、若い衆に持参させた。毛利秀吉は、十九歳の童貞で、小稲によって、それを破られた。  毛利は、代を払うかわりに、逆に小稲から十両をもらって屯所へ帰って来た。この艶聞は、江戸中の評判になった。  毛利がやがて討死して、小稲が尼にでもなって、とむらった、というのなら、小説にでも芝居にでもなったろうが、結末は、どうもいけなかった。  毛利は、そのうちに、図々しくなり、ある夜、同衾《どうきん》した時、 「懐中がいささか心細くなったので、いくらか、たのめぬか?」  と、無心した。  その言葉が、いままで惚れきっていた小稲を、興ざめさせた。 「お安い御用でありんす。明日おとどけ申します」  小稲は、そうこたえた。その通りに、毛利が屯所へもどり着くのを追いかけて、使いが来た。文函《ふばこ》の中には、たしかに、十両入っていたが、それには、もう二度と来てくれるな、という縁切り状も入っていた。  笹間金八郎もまた、稀に見る美男であり、剣にも秀れ、文才もあった。当然、かよう狭斜の巷《ちまた》で、大もてにもてた。  辰巳芸妓で、随一の流行《はやり》っ児《こ》夢次が、金八郎に首ったけになった。  逢瀬をかさねるうちに、ある夜、夢次は、大喀血して、おのが長襦袢《ながじゅばん》を、血汐にそめた。金八郎は、それをもらって、黒羽二重の紋服の下に、いつも着るようになった。  夢次が、療養のため、房州の海辺へ移るや、金八郎は、   思い寝の夢や通はん妹《いも》と背が     替らじものと契《ちぎ》りかさねて  という一首をつくって、送った。  上野敗戦ののち、金八郎は、回天艦に乗り組み、南部領宮古湾に入った時、加藤作太郎、大塚波次郎、野村理三郎らとともに、追撃して来た敵の甲鉄艦に飛び移って、壮烈な討死をした。夢次が逝《い》ったのは、奇《く》しくも、同じ日だった。  五  五月十四日の、夜もかなり更けてからであったな。  神田|旅籠《はたご》町一丁目の飾職問屋「三幸」を、一人の覆面の武士が、訪れた。  あるじの三河屋幸三郎は、奥座敷で対坐すると、対手《あいて》が覆面を脱ぐのも待たずに、 「上野のかたがたに、たびたび、つけ狙われなさいましたそうで……、ご無事で何よりでございます」  と、云った。  武士は、渋沢成一郎だった。  成一郎は、この商人がぐれて、博徒の群に親しみ、盆茣蓙《ぼんござ》の前でうつつを抜かしている頃、知りあい、その気っぷが好きになり、やくざから足を洗わせ、屋敷に出入りを許した間柄であった。  幸三郎は、父親の与平が、武家へ高利の金を貸しつけた罪で、八丈島へ流された時、島の娘とのあいだに生れた男だったのだ。当時は、流人は赦免になって、故郷へ帰る時、島で娶《めと》った女房やその間に設けた子は、連れ帰ることができなかった。  幸三郎が、江戸の実父方へひきとられたのは、八歳の時だ。与平は、幸三郎をきたえるために、旧主人の大黒屋又兵衛の丁稚《でっち》奉公に住み込ませた。しかし、利かぬ気の幸三郎は、主人にくってかかり、その手へ噛《か》みついたために、つき戻された。次に遣《や》られた糸問屋でも、十日も経たぬうちに、抛《ほう》り出された。家へ戻って来た幸三郎は、手習|算盤《そろばん》など一向に習おうとせず、小鳥飼いに夢中になった。それが昂じて、小鳥の売買をはじめた。幸三郎が毎日のように行く小鳥屋の二階が、博徒の仲宿になって居り、丁半の声が、絶え間なく、ひびいていた。幸三郎は、一度、その賭場をのぞくや、こんどは、博打《ばくち》に夢中になった。  幸三郎の十代は、博打で明け暮れた。  池端《いけのはた》の茶屋で、借金で首がまわらなくなって溜息《ためいき》ついている時に、渋沢成一郎に見とがめられ、それが縁となり、成一郎の忠告で、|かたぎ《ヽヽヽ》にかえった。  幸三郎が、大商人にのしあがったのは、全く偶然のことだ。人間の運など、どこにころがっているかわからぬものだ。  文久二年、高輪の東禅寺に在った英国公使が、攘夷《じょうい》浪士に襲撃された。たまたま、その日、商用のため、幸三郎は、そこを訪れていた。ぐれて、博徒と交《まじわ》っていた時代には、いくどか修羅場《しゅらば》を経験し、死地をくぐったことのある幸三郎は、浪士の一人にとびかかって、押えつけ、公使へひき渡した。それがきっかけで、英人たちは、幸三郎の店に、雑貨の注文をしてくれるようになり、数年のうちに、「三幸」は、大儲けをしたわけだ。  彰義隊が結成されるや、幸三郎は、資金の援助を惜しまず、産が傾くのではないかと、周囲が心配するのを、「黙っていろ」としりぞけたものだった。  幸三郎は、もとより、恩人の渋沢成一郎に対して、どんな援助をも惜しまなかったが、また、天野八郎支配の上野彰義隊に対しても、大いに力をかしたのだ。  成一郎は、幸三郎に、云った。 「明朝、薩長軍が、上野を攻撃する」 「やっぱり、やりますか?」 「まちがいない」 「で——どうなります?」 「彰義隊は、二日と、もちこたえられない。大半が、討死だ」 「冗談じゃない。それじゃ、あんまり、むごすぎます」 「仕方がなかろう。江戸のどまん中で、闘っては、所詮《しょせん》、斧《おの》に向う蟷螂《かまきり》だ」 「旦那は、どうなさるので? 天野様と仲直りをなさって、ともに、一戦という次第に相成りますか?」 「そんな愚かなまねはせぬ。この江戸を火の海にするために、わしは、大阪城の軍用金の上前をはねたのではない」  実は成一郎は、盗んだ十二万両を、伊豆下田の古刹《こさつ》に預けておき、この三河屋幸三郎にたのんで、ひそかに運ばせ、この店の土蔵の地下に匿《かく》していたのだ。 「じゃ、旦那は、別に計るところがある、と仰言るので?」 「ある。……上野から彰義隊は、敗走する。その詮議《せんぎ》は、きびしかろう。わしは、かれらを救わねばならぬ。残党を遁《にが》すのは、陸路は無理だ。海だな」 「海?」 「そうだ。海だ。品川沖に、公儀軍艦八隻がいる。これに、彰義隊残党を乗せる。——わしは、榎本海軍総裁を説いて、蝦夷《えぞ》に渡ろうと思う」 「……」 「蝦夷は、広い。未開の世界だ。わしは、蝦夷を拓《ひら》く計画を樹《た》てた。そのために、大阪城の軍用金の上前をはねておいたのだ」 「成程。……これは、おやんなさることだ」  幸三郎は、大きく頷いた。 「それで、てまえに、たのみたいと仰言るのは?」 「敗走の隊士を、できるかぎり、かくまってくれること。わしが通報したら、品川沖の軍艦へ送ってくれること。……それから、わしが、蝦夷から手紙を寄越したら、十二万両を、輸送してくれることだ」 「承知つかまつりました」  六  五月十五日の激戦が、どのようなありさまであったか——これは、記録でも読めばよいことだ。彰義隊三千名を袋の鼠にしておいて、薩摩、肥後、筑前、彦根、長州、肥前、筑後、大村、佐土原、阿州、新発田《しばた》、尾州、大垣、備前、津、紀州、芸州らの各藩合せて一万七千六百の兵が、総攻撃をやったのだ。およその想像がつこう。  彰義隊はよく戦った。  例えば、東叡山《とうえいざん》の本門——黒門口の修羅場だけをみても、闘いは凄《すさま》じかった。  薩摩兵三千を主力とし、これに肥後細川の精鋭が加わって、押し寄せ、猛射撃をあびせかけた。  これに対して、彰義隊は、本隊と万字隊をもって防いだ。頭取酒井宰輔が指揮をとり、青竹で編んだ楯で身をかばいつつ、官兵の射撃と射撃のあいだの瞬時の隙《すき》をえらんで、斬り込み、阿修羅《あしゅら》となって、あばれまわった。薩兵の死傷者は、おびただしいものとなった。  やがて、酒井宰輔は、総身血まみれとなり、官兵の狙《ねら》い撃ちで、蜂の巣のごとく弾丸をあびて、斃《たお》れた。しかし、頭取を討たれた斬込み隊は、屈せず、なお、突撃を敢行しつづけて、午前中の闘いでは、むしろ寄手を圧倒した。  旗本御家人の一人風間駒吉(二十三歳)は、豹のように敏捷《びんしょう》な、勇敢無類の若者だった。敵弾が休止する隙をうかがって、疾風《しっぷう》の勢いで、黒門からとび出して行き、斬りまくった。そのうち、深入りして、官兵十数人に包囲され、ついに、衆寡《しゅぅか》敵せず、斬り死にした。官兵らは、その死骸《しがい》を、踏みつけ、蹴とばして、辱《はずか》しめた。藩士布目又兵衛は、この有様を目撃して、憤怒《ふんぬ》し、ただ一人で、そこへ斬り込んで行き、官兵七人を斬り伏せ、駒吉の死骸をかかえて、山内へひきかえして来た、という。  十九歳の宇山金三郎は、酒井宰輔に従って、斬り込みをくりかえし、からだに七箇所の傷を負うたが、なお屈せず闘いつづけた。やがて、弾丸が膝頭《ひざがしら》にあたって、歩行困難になったので、血刀を杖として中堂まで引きあげて、割腹しようとしたが、手元が狂った。そこへ、官軍が殺到して来て、あわやなぶり殺しにされようとした。さいわい、大垣藩の伝令使今村喜八郎が来て、官兵を叱咤してくれたおかげで、一命をとりとめることができた。  十七歳の中村徳三郎は、敵の隊長とおぼしい者を狙って、野獣のごとく襲いかかり、ついに首級二箇を奪い取るや、その髪をむすんで、振りわけにして、肩にかけて、なお、敵陣をかきみだした。やがて、弾丸を五発も受けて、体力が尽きるや、山内へよろめき戻り、清水堂の前で、割腹して果てた。  一人一人の奮戦ぶりを挙げれば、きりがない。旗本八万騎が最後の花を咲かせた、というべきだ。  薩兵の指揮をとっていた中村半次郎は、あまりの死傷者の続出に、大村益次郎の許へ奔《はし》って、援兵を乞うた。  しかし、大村は冷然として、 「ここが、薩摩隼人《さつまはやと》の働きの見せどころであろう」  と、しりぞけた。  中村は、かっとなり、 「おはん、薩摩の兵をみなごろしにする所存か?」  と、睨《にら》みつけた。 「左様——」  大村は、ためらわず、頷いてみせた。  大村は、べつに、中村をからかったわけではない。軍機を舌頭に死活せしめる肚《はら》を持っていたのだ。  おのが一語が、いかに、薩兵の士気を激させるか、それを計算に入れていたわけだ。  その通り、薩兵は、大村の一語をつたえられるや、火のごとく奮激して、突撃して行き、敵味方の屍を踏みこえて、ついに黒門口を奪った。  大村益次郎は、自信を持っていた。  総督府の将官らが、戦闘状況の不利をきいて、急いでやって来て問うと、大村は、 「午后二時まで待って頂こう」とこたえた。  湯島台の砲兵に命じて、上野の中堂を狙《ねら》って砲撃させ、自分は、西丸の城楼《じょうろう》にのぼって双眼鏡で遠望していた。やがて、砲弾が、吉祥閣に命中して、火煙が噴いた。  大村は、かたわらの幕僚をふりかえって、 「官軍は、捷《か》った」  と云って、すたすたと楼を降りた。恰度《ちょうど》、午后二時だった。  間もなく、捷報《しょうほう》がもたらされた。  さて——。  その後の渋沢成一郎の行動を、述べておかねばならんだろう。  成一郎は、「三幸」こと三河屋幸三郎にたのんで、彰義隊残党を、地下にもぐらせることに、陰の力を尽した。  彰義隊指揮者天野八郎は捕縛され、再挙の目処《めど》を失った残党は、やがて、幸三郎のはからいで、毎日数人ずつ、百姓や人足姿に身をやつして、深川河岸から小舟に乗り、品川沖に碇泊《ていはく》している榎本釜次郎支配の軍艦八隻へ、逃げ込んで行った。その数二百五十余名。  この艦隊が、品川沖を脱走したのは、八月十九日だ。  旗艦《きかん》開陽丸には、いつの間にか、渋沢成一郎の姿があった。成一郎のかたわらには、同志三十五名のほかに、生き残った大阪博徒数人もいたな。  榎本釜次郎を首領とする幕軍残党が、北海道|函館《はこだて》に入り、五稜郭《ごりょうかく》にたてこもって、新政府を樹立し、やがて、降伏した経緯は、また別の機会にゆずらねばならん。  問題は、渋沢成一郎だが……函館まで同行して、北海道政府樹立に尽力したにも拘らず、その年の暮れ、忽然として、五稜郭から姿を消している。  渋沢成一郎は、彰義隊の残党たちを眺めているうちに、深い失望をおぼえたらしい。  江戸へ舞い戻って来て、三河屋幸三郎と再会するや、成一郎は、その不審にこたえて、 「信頼してよい面々は、すべて、五月十五日に討死してしまっていた。蝦夷へ遁れた連中は、屑《くず》ばかりだった」  と、述懐した、という。  成一郎は、北海道を拓《ひら》く夢を放棄したのだ。 「では、匿してある十二万両は、どうなさいます」  幸三郎は、訊ねた。  成一郎は、にやりとして、 「わしは商人になろう。ひとつ、金力で、日本を支配してやろう」  と、こたえた。  成一郎は、それから数日後、捕えられて、繋獄《けいごく》の身となった。  明治五年、大赦に逢《お》うて、出獄してからの成一郎の働きは、アレヨアレヨというめざましさであったな。まず、大蔵省七等出仕になり、欧米を経巡《へめぐ》って来た。帰朝後、ただちに、官職を辞して、商業界に身を投じた。  十二万両が、そこで、ものを云った。  あるいは貿易商となり、あるいは投機市場に出入りし、あるいは生糸荷預り所を開いて外国資本と利権を争い、また、東京株式取引所を創設し、あるいは共同運輸会社を起して三菱会社に当る、というあんばいであったな。  成一郎は、いわば、一種の天才であったわけだ。ただの策士謀人ではなかった。  明治二十九年に、東京商品取引所の理事長になっているが、就任いくばくもなくして、市場に非常な好況をもたらしている。成一郎が就任前は、せいぜい四、五分の配当に止《とどま》っていたのが、俄然《がぜん》、五倍六倍と高位に上って、ついには、三割配当をするようになった。投機市場に於ける成一郎の技倆《ぎりょう》の抜群、看《み》るべしぞ。  ともあれ——。  渋沢成一郎は、公儀軍用金十二万両を盗んで、彰義隊を結成したが、運命が二転三転して、ついに、その金で、明治財界の大立者になったというわけだ。全く、人間の運命なんて、わかりゃせんよ。  函館五稜郭  一 「は、はっ、はっくしょいっ!」  等々呂木神仙《とどろきしんせん》は、ひとつ大きなくしゃみをした。この寒気きびしい二月なかばに、相変らず、褌《ふんどし》ひとつの素裸であった。  私が持参した灘《なだ》の生《き》一本は、一時間も経たぬのに、すでに、半分に減っていた。 「先月は、上野彰義隊のことを喋《しゃべ》ったから、今日は、それにひきつづく函館《はこだて》の戦さを喋るかの」  神仙は、云った。 「わしは、明治維新に活躍した人物の中でも、榎本武揚《えのもとたけあき》という男は、好きな奴だ。スケールが大きい。人によっては、誇大妄想というが、男子ひとたび生れたからには、ひとつ、天下を取ってくれよう、と壮図《そうと》を想い描くのは、大いによろしい。雄志むなしく挫折《ざせつ》すれば、賊徒の汚名を蒙《こうむ》ることになる、などとおそれて居っては、維新動乱の時世を生き抜くことは出来ぬ。榎本武揚は、江戸が薩長軍に奪われ、幕臣最後の徒党たる彰義隊が、上野山内に潰滅《かいめつ》するのを眺めた時、決意した。幕軍残党を率いて、蝦夷地《えぞち》に渡り、そこで蝦夷を独立させて、一国を成してやろう、とな。……大東亜戦争に敗れるや、九州を独立させようと企てた男がいたそうだが、いつの世でも、歴史が書きかえられようとする秋《とき》には、こういう男は出現する」  明治元年八月十九日(新暦十月四日)——。  榎本釜次郎は、開陽《かいよう》、回天《かいてん》、咸臨《かんりん》、蟠竜《ばんりょう》、千代田の軍艦五隻に、神速、美嘉保《みかほ》、長鯨《ちょうげい》の運送船三隻を加え、前若年寄永井|尚志《なおむね》及び彰義隊残党を伴って、品川湾を脱走した。  これらの軍艦が、どういう型であったか、参考までに教えておこう。  開陽艦は、木造三本|檣《マスト》、シップリングフリゲート型、長さ二百四十|呎《フィート》、幅三十九呎、排水量二千八百十七噸。回天艦は、木造三本檣、砲艦、長さ二百十七呎、幅三十四呎、排水量一千六百七十八噸。蟠竜、千代田は、回天よりも、すこし小ぶりだったな。いずれも汽力、螺旋《らせん》を使用していた模様だが、速力の程は、よく判らん。  榎本釜次郎は、十八歳の時、長崎の海軍伝習所に入り、江戸に還ってからは築地に在った海軍操練所の教授になり、やがて、幕府が、オランダに軍艦を注文するや、留学生として、アムステルダムに行って、軍艦構造、機械、海軍学、海上国際法など、六年間も研鑽《けんさん》して来た男だ。半年ぐらい、うわっつらの外遊をして来て、新知識をふりまわす手輩とは、質を異にしていた。  釜次郎は、幕府が注文した軍艦が、アムステルダムで竣工《しゅんこう》したので、それに乗って帰国した。その軍艦が、開陽だ。  いわば、開陽は、釜次郎にとって、おのれの家のようなものだったのだ。  この開陽を旗艦《きかん》として、艦隊を率いる軍艦奉行たる者が、いまだ一度も、薩長勢とは、決戦していないのだ。  たとえ、将軍家が降服しても、おのれ自身は、敗北意識は毛頭みじんもないのだ。  薩長勢に、ひと泡噴《あわふ》かせてやろう、という気持が起るのは、当然だろう。  釜次郎は、脱走にあたって、『徳川家臣大挙告文』を草している。 『当今の政体、その名公明正大たりといえども、その実然らざるものあり。これ十目の視、十指の指すところにして、……王兵の東下するや、わが老寡君《ろうかくん》(将軍慶喜)を誣《し》うるに朝敵の冤罪《えんざい》汚名を以てし、その城池を取上げ、倉庫を籍没し、祖先の墳墓を棄《す》てて祭らず、旧臣の采邑《さいゆう》を奪って官有に付し、ついにわれらをしてその居宅をさえも保つ能《あた》わざらしむるにいたる。……今唱えるところの王政なるものは、真の王政にあらず、一、二強藩の独見私意に出でたるものにして、当世の役々には市井無頼《しせいぶらい》、刑余の小人も存じ、朝より退けば、酒色|放縦《ほうじゅう》、加うるに、これらの輩《やから》は、われら幕臣の身を殺して仁を為す徒を、一概に目して賊徒となし、捕えて、財を奪う。われらが曾《かつ》て天地に誓って、徳川氏遺臣の為に、蝦夷開拓の事を請《こい》求めしも、容れられず。有志東西に分散し、鰥寡孤独《かんかこどく》、飢えは旦夕に逼《せま》る。ここに因《よ》って、妻子を棄て、身命を惜しまず、仇とするところを仇とし、兵を弄《もてあそ》び、死を期して自ら快しとする者も、未だ一概に、反名を負わしむる能わざるに似たり。是《ここ》に於て、この地を大去する事を決し、長く皇国一和の基を開くべきため、その端を開かんとす』  釜次郎は、はじめは、拠《よ》るべき地を、ハワイあたりに思い描いたらしい。いろいろ考えた挙句《あげく》、蝦夷地と決定したのだ。  二  ところで——。  榎本釜次郎が品川沖を脱走する数日前、海軍奉行|勝海舟《かつかいしゅう》が、ひとつ、ひそかな手を打った。  隠し目付の庭番の一人佐々木十次郎という若者を、海舟は、呼び寄せると、 「生命をわしにくれぬか」  と、云った。  佐々木十次郎は、庭番随一の俊敏を称され、千葉周作の道場で剣の天稟《てんぴん》をみがいて、大いに属目《しょくもく》されていた。 「さし上げます」  十次郎は、海舟の命令を待った。 「今春、鳥羽伏見の戦いに敗れて、上様が大阪城より、この江戸へ帰還されたあと、大阪城内にたくわえてあった軍用金も、はこばれて来て、勘定奉行の手に渡された。ざっと、十五万両あった」 「……」 「ところが、この十五万両が、いつの間にか、煙のごとく消えた」  勘定奉行|小栗上野介《おぐりこうずけのすけ》は、その十五万両を江戸城金蔵に納めておけば、当然、官軍に没収される危険がある、と考えて、品川|伝奏《てんそう》屋敷の土蔵にかくしたのであった。  四月四日、江戸城は官軍のために開かれ、これを不服として、彰義隊が上野山内に籠って抗戦し、ついに潰滅した。  このさなか、勝海舟は、十五万両を、慶喜とともに、駿府《すんぷ》へ移そうと考えて、品川伝奏屋敷の土蔵へおもむいたところ、百五十箇の千両箱は、一箇ものこらずに、失せてしまっていたのである。 「下手人は、判明した」 「何者でございますか?」 「榎本釜次郎だ」 「え?」 「榎本は、蝦夷へ趨《はし》って、その地を取り、四散して居る幕臣を呼び寄せ、蝦夷幕府をつくる肚を抱いて居る。榎本は、十五万両を、その軍資金に当てる存念だ」 「……」 「その壮志は、あっぱれと申すべきであろう。しかし、榎本は、時勢に対する認識をあやまって居る。薩長勢は、蝦夷へ趨った榎本をすてては置かぬ。必ず、追討するであろう。もとより、榎本は、干戈《かんか》によって是非曲直を争おうとする決意であろうが、所詮《しょせん》、勝目はない。殲滅《せんめつ》の悲惨に遭《あ》うことは、目に見えて居る。そうなれば、十五万両は、いたずらに、雲散霧消する。たとえ、いくばくか残っても、官兵に奪われる。……十五万両は、とりかえさねばならぬ。十五万両あれば、駿府に於ける、上様と幕臣らのくらしは、なんとか、面目を保てよう。……その方に、十五万両をとりかえす役目を申しつける」  十次郎は、しばらく、畳に両手をついて、身じろぎもしなかったが、やがて、 「かしこまりました」  と、承知した。  それから二日後、十次郎は、幕府残党の一人として、開陽へ乗り込んでいた。  さて——。  脱走艦隊の運命だが、前途の非命を暗示するかのごとく、幸先宜《さいさきよ》しとはいかなかった。  品川を、暗夜濃霧にまぎれて出たまではよかったが、翌朝に、暴風雨が襲って来て、まず、美嘉保丸が、銚子の沖で沈み、咸臨丸は、南へ流され、豆州清水港に入ったところを、官軍のために拿捕《だほ》された。  旗艦開陽も、檣《マスト》を折られ、他艦とともに、三日間も洋上を漂うて、ようやく、仙台領東名浜へ避難するを得た。  その時、すでに、奥羽各藩の同盟は破れて、仙台藩も、官軍に降ろうとしていた。  榎本は、幕軍に加わって各地を転戦して仙台に来ていた大鳥圭介《おおとりけいすけ》、土方歳三《ひじかたとしぞう》、古屋作左衛門、人見勝太郎及び仙台藩の星恂太郎《ほしじゅんたろう》を艦に収容すると、曾て幕府から仙台藩に貸与していた大江丸、鳳凰《ほうおう》丸を加えて、十月上旬、仙台領を去り、蝦夷地を目指した。総軍約三千五百人だった。  三  十月二十日。  脱走艦隊は、蝦夷|噴火《ふんか》湾内の森町の西——鷲ノ木港に到着した。  当時、蝦夷は函館府と改められ、清水谷|公考《きみなる》という人物が、府知事に任じていた。  清水谷公考は、脱走艦隊が鷲ノ木港に入ったという急報に接するや、直ちに、函館駐屯の府兵に命じて、討伐に向わせた。  両軍は、峠下村附近で激突したが、鎧袖一触《がいしゅういっしょく》、福山・弘前・大野・松前の混成府兵は、忽ち蹴散らされ、青森まで追いはらわれてしまった。  勢いに乗って、榎本は、一挙に、函館五稜郭を奪いとった。  清水谷公考は、秋田藩の軍艦陽春丸で、逃れて、青森へ落ちた。  清水谷公考が、なぜ、五稜郭に籠《こも》って、決戦せずに、函館を無血で明け渡したか。それには、函館駐在の外国領事から、 「開港場に於ける戦闘は、国際問題になる」  と抗議されて、泪をのんで、闘わずして遁走した、というのだ。  理由はなんであれ、清水谷公考が、腰抜けであった、ということにかわりはない。  ところで——。  五稜郭は、函館市亀田町から東北約一里の地点に在る。幕府では、安政二年、函館湾に臨む弁天崎砲台、築島砲台、沖ノ口砲台などとともに、五稜郭の築城に着手し、元治元年に完成している。  設計者は、函館奉行・諸術調所教授武田|斐三郎《ひさぶろう》であった。  一冊のオランダ築城書をたよりに、つくりあげた、という。  前後七年かかって居る。日本最初の洋式築城だ。海岸から、当時の軍艦の砲撃射程距離外を計った、という。菱花形《ひしはながた》の稜堡《りょうほ》式|城塞《じょうさい》であり、突角部に砲座を設け、各稜堡から一斉に十字砲火を包囲の敵にあびせられるしくみになっていた。  ヨーロッパ先進国で、十七八世紀に流行した城塞であったわけだ。総面積は五万四千余坪、周囲には高さ一丈五尺の土塁《どるい》をめぐらし、その外側には、深さ一丈余の濠《ほり》を掘ってあった。  当時としては、大規模な城塞だが、完成した時には、あまり役に立たないしろものとなってしまっていたのだな。  世界最大の戦艦大和・武蔵が、太平洋上へすべり出た時には、すでに、無用の長物と化していたのと同様だ。  榎本は、この五稜郭に拠るや、土方歳三に兵をさずけて、半島西端にある福山城(松前藩主居城)を襲わせ、回天・蟠竜の二艦に海上から砲撃させ、忽《たちま》ちに陥れた。そして、さらに進んで、江差に迫った。  松前藩主松前徳広は、その時、江差にいたのだ。  松前徳広は、江差をすてて、奥の熊石へ遁れた。  この時の闘いで、江差港に入った開陽が、不運にも暗礁に触れて、沈没した。  開陽は、さきに云ったが、幕府がオランダに注文した、排水量二千八百噸、大砲二十六門を備え、海内無双の走力を誇る旗艦だった。榎本が、官軍に抗して、蝦夷に新天地を求めたのも、この開陽があったればこそだ。  榎木が、開陽を失った絶望感は、想像にあまりがある。  松前徳広は、熊石に遁げ込んだものの、藩兵の大半を失って居り、なお身に危険が迫るのを知って、家族四人、家老、侍女、その他家臣七十余名とともに、漁船に乗って、関内浜から、海上へ遁れ、高い波浪をようやく乗りきって、青森の平館へ着いた。  津軽藩主の好意で、弘前城下の薬王院に入ったが、あまりの惨めな敗北ぶりに、厭世観にとらわれ、深更、人知れず、自刃して果てる。  こうして——。  蝦夷地に残された三百余の松前藩兵は、ことごとく、幕軍に降った。しかし、幕府に加わって、寄せて来る官軍と闘う意志を持った者は一人もなく、十二月に入ると、みな舟で津軽へ向った。榎本の寛大な措置といえた。  明治元年十二月十五日。  榎本釜次郎は、ついに、おのが夢であった蝦夷幕府を樹立した。  米国大統領選挙に倣《なら》って、士官以上の入札を以って、頭領を公選した。  当然——、榎本釜次郎が、百五十六票の最高点で、総裁となった。釜次郎、この時、まだ三十三歳だ。  オランダに六年間在って、英国、仏蘭西《フランス》へもしばしばおもむいて、ヨーロッパの現実に接して来た榎本は、日本随一のエンサイクロペジストの自負を持っていた。蝦夷幕府の総裁たることに、なんの力の不足をおぼえなかったわけだ。  未開の原野をきり拓いて、江戸にまさる中央集権の大都市をつくりあげ、十万の精鋭をやしない、本州を圧倒する産業を興す夢が、榎本の心中にふくれあがっていたのだ。  蝦夷には、たがやすべき土地が無限にひろがっていた。森林も無限だ。魚も無限だ。乏しいのは、人だけだった。その人は、やがて、ぞくぞくと、海を渡ってやって来るに相違ない。  百一発の祝砲をきき乍ら、榎本釜次郎は、莞爾《かんじ》たるものだった。  副総裁・松平太郎、海軍奉行・荒井|郁之助《いくのすけ》、陸軍奉行・大鳥|圭介《けいすけ》、海軍総判官・竹中春山、今井信郎、陸軍奉行並・土方歳三、函館奉行・永井|玄蕃《げんば》、松前奉行・人見勝太郎、江差奉行・松岡四郎次郎、開拓奉行・沢太郎左衛門、海軍頭・甲賀源吾。  年号は、慶応を継承した。  函館に在る各国領事も、この幕府を、交戦団体として認めたし、港内|碇泊《ていはく》の英・仏軍艦の艦長らも正式に、蝦夷政権たることを承認した。  各領事、艦長を招いて、榎本がとうとうとぶちまくった流暢《りゅうちょう》な英語、仏語の力が、かれらを頷《うなず》かせるのに、大いに役立ったようだ。  四  もとより、榎本は、官軍と干戈《かんか》を交えるのは避けたかった。  政権樹立するや、英・仏両艦の艦長に、明治新政府宛の嘆願書を托した。  徳川藩はわずか七十万石で、とうてい旧臣をやしなうことはできない。これまで等閑に棄て置いた日本肝要の地即ち東西蝦夷を開拓して、一は同藩凍餓の苦を凌《しの》ぎ、一は我国北門の守りを固め、外国の窺《うかが》うところを防がんために、ここに無益の人を以て有益の業を為さしめんとするものである。  そういう要旨であった。  しかし、明治新政府は、これを破りすてて、榎本以下旧幕臣を賊徒と看做《みな》した。  追討令は、すでに、各藩へ公布されていた。  榎本としても、決戦は覚悟の上だ。  決戦準備は、着々とすすめられた。  函館山各処には見張所を設け、港湾には見張艦船を配置し、内には穴倉をつくり、台場にもまた二間四方の穴を掘り、要所には地雷火を据え、柵《さく》をむすび、新保塁を築いた。  新保塁は、函館附近のみならず、北方の峠方面、有川、木古内、茂辺地、福山、江差方面にも、夥《おびただ》しく築いた。  これらの築造に当っては、仏蘭西士官が、直接指導した。  また、地下《じげ》の女子供が動員されて、日毎に、二万発の弾丸が製造された。  榎本は、断乎として、寄せ来る官軍を、撃退する自信を持っていた。  財力があった。十五万両という軍資金があったのだ。  十五万両を、十万両と五万両に分け、その五万両の方を、五稜郭内の総裁室に置いて、どんどん使い、防禦設備に、さまざまの工夫を行っていたが、なお、三万両以上がのこっていた。  士卒もまた、榎本が惜しげもなく金を費消するのを見て、軍資金の豊富を知り、士気大いに上ったことだ。  兵の配備は、次の如しであった。五稜郭八百人、函館三百人、松前四百人、江差二百五十人、福島百五十人、室蘭二百五十人、鷲ノ木百人。ならびに、森、砂原、河汲、有川、当別、矢不来、木古内などに、各一個小隊。  受けて立つ布陣は、完璧であった。  ところで——。  海陸軍の総裁としては、榎本は打つ手はすばやかったが、政治家としては、どうも、あまりうまくなかったな。  開拓奉行を設けて、食糧の自給を計ったり、麦作を奨励したり、西洋式近代農法をとり入れたりしたところまでは、鮮やかであったが、外国列強に、蝦夷幕府を支持させるのをいそぐあまりに、ご機嫌とりをやりすぎている。例えば、函館郊外の七重村周辺の土地三百万坪を、プロシャ人ゲルトネルに、九十九年間の租借《そしゃく》を許している。国威を示すどころか、民族主権の独立を危くする失態というべきだ。  榎本は、また、政治家として、民衆の支持を得なければならぬ、という第一条を忘れたな。すなわち、漁場請負制度を設けた。運上金の徴収というやつだ。商人には、御用金を課し、一般庶民にも重税を課した。榎本もまた、三百年の伝統を持つ徳川幕府生えぬきの武士であったわけだ。民衆から、いくらしぼりあげてもかまわぬ、という奴隷支配の観念を持って居た。  賭博《とばく》や密淫売《みついんばい》は黙許するという愚民政策も、踏襲した。  ありあまる軍資金があったのだから、民心|収攬《しゅうらん》の巧妙な施政を考えるべきであった。榎本も、所詮武人であって、文治の才能には欠けていたらしい。  防塁造りなどに、函館住民をかり集めて、労役を課し乍ら、一文も支払わずに、ただ、食物だけ与えて、それきり、ほったらかしたのも、まずかったな。  そのために、後日、官軍が攻め寄せて来た際、地蔵町の鍛冶《かじ》職人蓮蔵なる男が、暗夜の風雨にまぎれて、小舟をあやつって、大胆不敵にも、弁天砲台に忍び入り、すべての大砲の火門に、釘を打ち込んだ。幕兵は、いざとなって、大砲が使いものにならず、大損害を蒙ってしまった。  また、蓮蔵は、官軍を手引きして、間道を抜け、弁天砲台の背後に、有利な陣地を布《し》かせた。  これで、日本一を誇った堅固な砲台も、半日も保たずに、陥落してしまった。蓮蔵は、たった一人で、函館住民の忿懣《ふんまん》を、一挙にはらしたわけだ。  さて、年がかわり、三月に入るや、官軍は大挙して、函館討伐に向って来た。  海陸同時に、東京を進発した。  海軍は、甲鉄艦が旗艦となり、陽春、春日、丁卯《ていう》の三艦に、朝廷の朝陽、佐賀藩の延年が加えられた。  甲鉄艦というのは、艦名ではなく、文字通り、鉄鋼で装っているために、そう称《よ》んだのだ。新政府は、榎本釜次郎を討つには、開陽にまさる甲鉄艦を入手しなければならなかった。そのために、討伐期が延びたのである。  その甲鉄艦は、ストンウォール・ジャクソン号といった。アメリカの軍艦だ。  新政府艦隊は、三月十八日、舳艫相銜《じくろあいふく》んで、南部の宮古湾に着いた。  榎本は、これを知るや、 「よし、旗艦の甲鉄艦を奪取してやる」  と、武者|顫《ぶる》いした。  江差攻撃で、虎の子の開陽を失って絶望していた榎本だ。開陽に代る優秀な軍艦を、どうしても欲しかった。  甲鉄艦は、排水量は千三百噸だが、馬力千二百、甲板の前後に回旋砲台が据えつけられ、三百|斤《きん》砲一門、七十斤砲二門をそなえて居り、砲塔は厚さ四寸の鉄板で掩《おお》われていた。まさに、榎本にとっては、垂涎《すいぜん》にあたいする軍艦だった。  事実、甲鉄艦は、蝦夷艦隊の主力である回天から放たれた五十斤砲弾を、砲塔にくらったが、ほんのかすり傷のような弾痕をとどめただけだった。  三月二十日夜半。  蝦夷艦隊——回天、蟠竜、高雄の三艦は、函館港を出た。ところが、翌日、濃霧と颶風《ぐふう》に襲われて、三艦は、はなればなれになってしまった。二十四日に、ようやく旗艦回天は、米国国旗を、高雄は、ロシヤの国旗をかかげて、宮古湾より南五里にある山田湾に入った。蟠竜は、ずっとおくれていて、姿を現さなかった。  回天と高雄は、蟠竜を待たずに、山田湾を出た。  その時、不運にも、高雄が機関に故障を起して、雁行《がんこう》不可能になった。  しかし、逡巡していては、黎明《れいめい》に宮古湾を襲うことができなくなる。夜が明けはなたれれば、回天であることを、敵に看破されるおそれがあった。  やむなく、独り回天が、甲鉄艦を襲うことになった。  回天には、ニコールという観戦希望の仏蘭西の客将が乗り込んでいたが、宮古に近づくや、土方歳三以下新選組残党及び彰義隊生残りを集めて、アボルダージ(接舷攻撃)の順序を教授した。  その方法は、白鉢巻、白襷《しろだすき》の合印をつけて、同士討ちをせぬようにして、彼我の船舷が相接するや、一斉に敵艦の甲板に躍り込んで、斬りまくり、突き込み、一隊は敏捷《びんしょう》にパノー(船員ハッチ)を扼守《やくしゅ》して、船内を乱射して、降伏させる。 「曾て、わが仏艦は、英艦を奪い取った際、兵五十人で、ハッチを閉鎖し、船内三百人を降伏せしめたことがある。諸君は、必ず成功するであろう」  と、ニコールは、一同をはげました。  作戦は正しかった、といえる。  ところが、現実に襲ってみて、意外の不利に遭った。  回天の舷が、甲鉄艦の舷よりも、一丈あまりも高かったのだ。一斉に、跳び降りるわけにいかなかった。躊躇《ちゅうちょ》しているところを、甲鉄艦の甲板に据えつけられたガットリングガンが、火を噴いた。一分間に二百八十発を放つ新兵器だ。回天の斬り込み隊は、あっという間に、十人も撃ち仆《たお》された。  回天艦長甲賀源吾は、憤怒《ふんぬ》して、自ら、五十六斤砲を操作して、甲鉄艦甲板へ、一発ぶち込み、数人を四散せしめた。しかし、甲賀源吾自身も、ガットリングガンに、顔面を貫かれて、斃《たお》れた。  野村理三郎以下新選組残党、笠間金八郎以下彰義隊生残りは、丈余の高さをものともせず、甲鉄艦へ躍り込んで、呶号を噴かせて、突撃を敢行したが、如何《いかに》せん、自由自在に旋回するガットリングガンに狙い撃たれて、バタバタと仆れ伏してしまった。  回天に生還したのは、わずか二人にすぎなかった。  回天司令官荒井郁之助は、艦長甲賀源吾の壮烈な討死を見て、退却を命じた。  わずか三十分の激闘であった。  幕軍の死者十七人、負傷者二十余人であった。官軍側は、死傷合せて三十余人。この時、甲鉄艦には、東郷平八郎が、三等士官として乗り組んで居り、かなり奮戦したようだ。  政府艦隊は、遁走する回天を、のがさじ、と追いかけたが、途中、故障でもたついている高雄を発見して、これを猛襲した。  高雄は、逃げまわった挙句、南部|九戸《くのへ》の雑賀村の海岸に坐礁して、自ら火を放った。  回天と蟠竜は、ようやくのことで、敵艦隊をふり切って、三月二十六日の夕刻、函館港に戻り着いた。  五  榎本釜次郎は、この敗報に接するや、不吉な予感に襲われた。  ——やられるかも知れぬ!  総指揮官が、こんな予感に襲われては、もう、いかん。  予感は、的中した。  いや、その緒戦《しょせん》に於ては、幕軍の方が優勢を示した。江差口に進んで来た官軍は、伊庭《いば》八郎、松岡四郎次郎の率いる五百の隊が、猛然と、撃破した。大鳥圭介は、木古内《きこない》で、土方歳三は、二股口で、それぞれ勝利をあげた。  幕兵は、奥州諸藩の田舎侍とはちがい、洋式訓練を受け、士気あがった精鋭だった。  いたるところで、緒戦に敗れた官軍は、急遽《きゅうきょ》援軍を、青森本営に要請した。総督府では、薩・長・水など九藩から成る三千余の第三軍を、江差に送り込んで来た。  彼我の戦況は、一転した。官軍は、兵力の優勢を誇って、江差を抜き、福山城へ迫った。  同時に、甲鉄以下五艦が、海上から熾烈《しれつ》な砲撃を加えた。朝陽一艦だけでも、百七十余発を、ぶち込んだ。  幕軍は、総退却した。  最後まで、頑強に抵抗したのは、土方歳三が指揮をとる二股口だった。  ここを攻めたのは、第二軍の長州藩兵と、第三軍の薩・長・備・徳の四藩兵の増援部隊だった。  官軍は、四月二十三日の夕刻から、攻撃を開始し、徹宵で銃砲撃をつづけた。しかし、どうしても、落ちぬ。翌日も、一日中、弾丸をあびせたが、幕兵は退かぬ。  二十五日朝にいたって、ようやく、幕兵は、三十余の死骸をのこして、退却した。  あとは、暴風雨に山野の草木が倒れるように、幕兵は、海陸からの十字砲火の下に、屈服した。  五月七日の払暁。  政府艦隊は、蝦夷艦隊を一挙に殲滅《せんめつ》せしめるべく、函館港内に進入を開始した。  甲鉄、春日、朝陽の三隻は、回天、蟠竜に向い、陽春、丁卯の二隻は、弁天台場に向って、猛砲撃を加えた。  幕艦は、勇敢に応戦したが、劣勢は如何ともしがたかった。  故障したままの蟠竜は動きがとれず、回天一隻で五艦を迎え撃ったが、甲鉄艦の三百斤弾を二発、七十斤弾その他数発をくらって、ついに機関部を破壊された。自ら浅瀬に乗りあげて、艦体を台場がわりの浮砲台にして、砲十三門をすべて片舷に移して、死力をつくして抗戦をつづけた。  政府艦隊は、これを見て、もはや大勢は決せり、と悠々と有川沖にひきあげた。  函館住民たちの間に、こんな唄がつくられ、うたわれた。   千代田分捕られ   蟠竜いじゃる(躄《いざ》る)   鬼の回天骨ばかり  千代田は、すでに、弁天台場沖の暗礁《あんしょう》に乗りあげて、乗組員全員がひきあげたあと、満潮でしぜんに離礁し、闇の中を流れているうちに、政府側に拿捕《だほ》されてしまっていたのだ。  五月十日——。  官軍側では、黒田参謀の率いる奇襲隊が、ひそかに海上を渡って、函館山の背後にある寒川及び山背泊《やませどまり》から、続々と上陸を開始した。  一方、本隊は、翌十一日に、大川、桔梗《ききょう》、および海岸沿いの諸道から、函館に向って、進撃して来た。官軍の総攻撃だ。  幕軍方も、大鳥圭介が自ら諸隊を引具して、五稜郭を出た。  戦線は、ひろがった。海岸線から、北方にのびて、赤川、神川に及ぶ一里半の戦線となった。  戦局を決定したのは、黒田参謀の率いる奇襲隊の、函館市街の背面を衝いた作戦であった。  幕軍は、戦線を寸断され、潰走《かいそう》した。  海上では、蟠竜が、朝陽の弾薬庫へ一弾を命中させて沈没させたが、それが最後の華々しい闘いだった。回天も蟠竜も、弾薬が尽き、艦長以下全員が、これをすてた。  かくして、五稜郭は、孤立無援の悲況に陥《お》ちた次第だ。  副総裁の松平太郎は、いま一度、函館を奪回せんとして、一本木関に撃って出たが、勝ち誇る官軍に対して、全く歯が立たず、敗退せざるを得なかった。この闘いで、土方歳三が討死した。  十二日。  函館港内に入って来た甲鉄艦から、五稜郭めがけて、七十斤砲弾が撃ち込まれはじめた。陸地からも、大砲が放たれはじめた。  そのさなか。  榎本釜次郎は、総裁室の真下にある地下蔵へ、降りて行った。  その地下蔵は、榎本が五稜郭に入ってから、急いで掘った秘密の金庫だったのだ。  まだ、そこには、十万両の大金が、匿《かく》してあった。  小判は、すべて、千両箱から、巨《おお》きな鉄製の大函に移してあった。  そして、それは、鉄の扉にぴったりと寄せて、かなりの角度に傾けられてあった。  すなわち。  扉を開けば、大函は、しぜんに外へすべり出て、暗い坑道を走って、濠の中へ落ち込む仕掛けになっていた。榎本は、万が一、敗北した際、官軍に、この巨額の金を奪われまいために、その仕掛けを考案したのだ。  濠の水底に沈めておいて、再挙の日に、再びわが手中にするという計画だったわけだ。  榎本は、いよいよ、十万両を濠の水底へ沈める肚をきめたのだ。  榎本は、扉を開けて、大函をすべり出させる前に、念のために、中身をたしかめておくべく、錠前をはずした。  蓋《ふた》を開いた——瞬間、 「おっ!」  愕然《がくぜん》と、榎本は、わが目を疑った。  十万両の小判は、一枚のこらず、消え失せてしまっているではないか。  ——どうしたというのだ、これは?  悪夢でも見ているようであった。  ここに、十万両を匿してあることを知っているのは、信頼すべき腹心数人しかいない筈であった。各奉行さえも、大半は知らされていなかった。  この地下蔵に入るには、二重の鉄扉を開かねばならぬ。その鍵は、榎本一人しか持って居らぬのだ。  かりに、二重の鉄扉を開くことに成功したとしても、どうして、運び出せるものであろう。すくなくとも、十人以上の者が、半日がかりではこび出さなければ、十万両の小判が、この大函の中から消えるものではない。そのような盗みが可能な機会は、一度もあり得なかった。  この地下蔵からの通路は、総裁室にのみ通じて居るのだ。総裁の自分が留守して居っても、番士は四六時中、おもてに立っていたのだ。たとえ奉行、隊長と雖《いえど》も、総裁の留守中、総裁室には入れぬのだ。また、誰かが無断で出入した形跡など、全くない。  十万両の小判は、煙となって、消え失せたとしか考えられなかった。  榎本は、茫然《ぼうぜん》として、三十分以上も、そこに棒立ちになっていた。  函館五稜郭は、それから三日後、陥落した。  幕兵三千五百人のうち、死傷六百余人。艦船十一隻のうち、九隻を失った。  六  降伏した榎本釜次郎はじめ主たる幕臣は、東京へ護送され、丸ノ内の糺問所《きゅうもんじょ》監獄に拘禁された。  政府部内に於ける大半の意見は、叛徒《はんと》の首魁《しゅかい》たる榎本は斬首《ざんしゅ》すべきである、とした。  しかし、黒田清隆、大村益次郎らが、榎本の人材を惜しんで極力反対した。  断罪まぬかれた榎本らは、明治五年特赦によって出獄した。のみならず、それから二月も経たぬうちに、榎本は、黒田の斡旋《あっせん》によって、蝦夷開拓四等出仕となって、思い出多いその地へ渡ることを得た。  初夏の涼風が渡る一日、榎本は、つわものどもの夢の跡である五稜郭の濠ばたに、彳《たたず》んだ。  無量の感慨を、その眼眸《がんぼう》にこめて、凝《じ》っと、城塞を仰ぎ見て動かぬ榎本の背後へ、しずかに、跫音《あしおと》が近づいた。  ふりかえると、キチンとした身装《みなり》の長身の男が微笑していた。 「君は——?」 「おぼえていて下さいますか。工兵頭をつとめて居りました佐々木十次郎です」  男は、名のった。 「君は、たしか、宮古湾で、甲鉄艦上で、討死したと報《しら》されて居ったが……?」 「こうして、まだ生きて居ります。……討死したのではなく、脱走したのです」 「ふむ?」 「私は、閣下が、いずれ、この五稜郭へ戻っておいでになることを信じて居りました。それで、函館にとどまって、お待ちして居りました」 「なにか、理由があってのことか?」 「そうです。総裁室の下の地下蔵から、十万両を盗んだ下手人だからです」 「君が! 君が、盗んだ、というのか?」 「たしかに、盗みました。私の正体は、勝海舟殿から遺《つかわ》された間者でありました」 「そうだったのか!……どうやって、盗み出すことができたのだね? わしには、全く見当もつかぬ」 「申しあげましょう。まず、濠側から、土塁の中へもぐり、坑道を匍《は》って、鉄扉に、手がさし込める程度の孔をあけました。さらに、金を入れてある大函にも同じ孔をあけました。工兵頭である私には、そんな作業をすることは、造作もないことでありました」 「ふむ。それで——?」 「私は、小判をつかみ出して、その一枚一枚に小孔をあけて、長い針金へ、数珠《じゅず》つなぎにしたのです」 「成程、そうだったのか」 「全部の小判を、数珠つなぎにするには、およそ三月かかりました」 「それで……、十万両を、この濠の底へ、沈めたのだな?」 「そうです」  佐々木十次郎は、にやりとしてみせた。 「私は、しかし、勝閣下には、この成功を、報告しませんでした」 「……?」 「榎本閣下、私が、こうして、お待ちしていたわけがおわかりになりませんか。……十万両は、まだ、この青い水の底に沈んで居ります。閣下ご自身の手で、ひきあげて頂きたいのです。私は、そのために、お待ちしていたのです。……閣下は、いまこそ、天下はれて、十万両を、蝦夷開発のために、お使いになれるのです。どうぞ、お願いいたします」  水戸天狗党  一 「水戸天狗党《みとてんぐとう》は、一人の若い俊才が、天狗に、脳天を一撃されたために、起った、と云えるのだな」  等々呂木神仙《とどろきしんせん》は、コップ酒を、ひと息に飲み干してから、云った。 「そういう伝説が、水戸にあるのですか?」  私が怪訝《けげん》の視線を送ると、老人は、かぶりを振った。 「伝説じゃない、事実だ。藤田小四郎は、実際に、天狗から、脳天をなぐられたのだ。水戸家中随一の俊才が、そのために、さらに、狂躁性《きょうそうせい》を加えた。……いわば、小型ヒットラーになったわけだな。どうも人間は、あまりに天才の頭脳を持って生れると、はた迷惑だな。あんたぐらいの脳味噌加減が、恰度《ちょうど》、浮世を渡るには、いいようだ」  藤田小四郎は、突然変異的な俊才ではなかった。祖父|幽谷《ゆうこく》、父|東湖《とうこ》ともに、抜群の逸材だ。  祖父幽谷は、六代|治保《はるやす》に仕えて、水戸の産業の振興に、敏腕をふるった人物だ。その出生は、いやしかった。城下の古着屋藤田屋与右衛門の次男に生れた。ところが、|むつき《ヽヽヽ》のとれぬうちから、稀代《きだい》の神童ぶりを発揮し、五歳の時には、千字文を読み書きした、という。当時、史館の総裁であった立原翠軒《たちはらすいけん》が、この神童の噂《うわさ》をきき、ひき取って、養育し、十五歳の時、史館御用部屋の小僧にした。あとは、とんとん拍子に出世して、史館の総裁にまでのぼった。  東湖は、また、その父をしのぐ英才だった。側用人《そばようにん》戸田忠太夫と比べられ、「水戸の両田」と称《よ》ばれ、戸田に代って側用人になるや、東湖あっての烈公、とまで謂《い》われた人物だ。  三代目となると、ふつう、ボンクラか、ボンクラでないまでも、かなり脳味噌の造られかたが、粗雑になっているものだが、小四郎は、そうではなかった。  伝説化した祖父の神童ぶりを、再現してみせるような、おそるべき智慧者《ちえしゃ》として、育った。  二十歳の秋のことだ。  小四郎は、日光東照宮へ参詣したついでに、山を登って、標茅原《しめじがはら》に立った。  標茅原は、戦場原、赤沼原とも唱える。  中禅寺別所の辺を去って、湯元入口まで、およそ三里の行程の、渺漠《びょうばく》たる平原だ。  永徳元年、小山|右馬頭《うまのかみ》義政、その子若犬丸が、南朝へ心を通じて、鎌倉の下知《げじ》に叛《そむ》いた。そこで、常陸《ひたち》の小田|讃岐守《さぬきのかみ》入道父子が、先手をうけたまわって、小山の城々を攻め落した。  嘉慶二年にいたって、古河《こが》の住人野田右馬助が、囚人一人を搦《から》め取って、鎌倉へつれて来た。その囚人が白状するところによれば、小田讃岐守入道は、いかなる存念か、小山若犬丸を討たずにかくまっている、という。  鎌倉方では、管領上杉|中務大輔《なかつかさたゆう》朝宗を大将として、小田讃岐守入道の城を攻めた。入道は、城を退いて、野州男体山へ、楯籠《たてこも》った。なにぶんにも、そこは、高山で、力攻めにも落し難かったので、鎌倉方では、謀を以て、海老名備中守を使者とし、免許の旨を伝え、出城して来るように促した。  入道は、はじめは、疑っていたが、備中守の再三にわたる説得に、ついに折れて、山砦《さんさい》を出た。  そこを、鎌倉勢は、包囲して、襲撃した。入道は、一族郎党百余名とともに、標茅原を血に染めて闘い、ことごとく、討死した。  鬼哭啾々《きこくしゅうしゅう》——、小田讃岐守一族の怨霊《おんりょう》は、標茅原に、永久にさまよいつづけることになった。  討死の日を迎えると、何処《いずこ》からともなく、血みどろの甲冑武者の列が、出現して、粛々として、平原を横切って、男体山の方へ消え去る、という噂は、徳川も末の頃になってもまだ、絶えて居らなんだ。  今日では、ハイカーやらドライバーやらが、うろちょろして、平原の草花をむしったり、糞小便や紙屑をあっちこっちへ残しているが、小四郎が立った当時は、文字通り無人の曠野《こうや》であったわな。  と——。  空に大きくはばたく音がして、丹頂《たんちょう》の鶴が、すうっと、小四郎の目の前に、舞い降りた。  小四郎が、その美しい姿に見惚《みと》れていると、こんどは、旗すすきを割って、こちらへ向って奔《はし》って来るものがあった。  小四郎ははじめは、何ものかと思った。その疾駆ぶりは、到底人間業ではなかったのだ。  ひょい、と旗すすきを割って、首がのぞいた。  天狗の面をつけた人間だった。  小四郎が、黙って、眼眸《まなこ》を当てていると、その者は、 「鶴は、やらぬ!」  と云った。 「鶴を獲りに来たのではない」  小四郎が、こたえると、 「云うな。去年も、お主《ぬし》のような若ざむらいが、鶴を獲りに来たぞ」  云いざま、携えた木太刀を、頭上に直立させると、肉薄して来た。  小柄、というよりも未熟なからだに見えたし、天狗の面の蔭からひびく声音は、きれいに澄んでいたので、小四郎は、こども対手《あいて》に争うのも大人気ない、と思い、そのまま、両手を空けて、立っていた。  しかし、一間の間近に迫った対手が、噴かせた気合は、小四郎に反射的に刀を抜かせるだけの凄《すさま》じさだった。  小四郎は、対手が、|むささび《ヽヽヽヽ》のように、宙へ高く跳躍して、襲って来るのを、必死で、薙《な》ぎ払った。  宙むなしく截《き》った瞬間、小四郎は、目|晦《くら》み、そのまま、意識を喪《うしな》った。  意識をとりもどした時、なんとしたことか、自邸の居間に寐《ね》かされていた。  わけがわからぬままに、小四郎は、つき添った家僕に、訊《たず》ねると、若い美しい女子《おなご》が、荷車にのせて、つれて来てくれた、という返辞であった。小四郎は、いよいよ、わけがわからなくなった。  二  爾来《じらい》、小四郎は、月に一度か二度、頭の鉢が砕け散るほどのもの凄い頭痛に襲われるようになった。  のみならず、その発作が起る前後には、抑え難い狂暴な、残忍な衝動に駆られるようになったのだ。  小四郎は、冷静な日には、われとわが身を恐怖した。この奇怪な病いを癒《い》やすには、もう一度、標茅原に立って、天狗の面をかぶった者と会わねばならぬ、と思い立った。  しかし、終日、平原上に立ちつくして、待ったが、ついに、対手は現れなかった。  やむなく、小四郎は、立札をして、心あらばわれらが再会の望みを容《い》れて来るべし、とさそっておいて、山を降りた。  しかし、その者は、一月経ち、半年過ぎても、小四郎の前に姿を現さなかった。  小四郎の頭脳の方は、痛みを重ねるにつれて、その前後ばかりでなく、時と場所をえらばずに、狂躁《きょうそう》の発作にかられるようになった。  時世がいけなかったな。  藩内は、派閥闘争が渦を巻いていたのだ。  水戸藩の中核的思想は、光圀《みつくに》以来の水戸学だ。この水戸学が、立原翠軒と藤田幽谷の時代に至って、それぞれ解釈を異にする二派に分れて分立闘争をはじめた。最初は、全く学問の見解の相違であったが、それが、しだいに、質を変じて、政治上の争いにまで、発展してしまった。  いわゆる激派《げきは》と鎮派《ちんは》が、まっ向から対立した。  その対立抗争が、露骨に表面化したきっかけは、孝明天皇が、幕府の手を経ずに、直接、水戸藩主に勅諚《ちょくじょう》を賜《たまわ》ったことにある。  勅諚は、幕府の専横を憤った天皇が、譲位の決意をもらされたものだった。これを受納したのは、京都留守居役・鵜飼《うがい》吉左衛門だった。その子幸吉が、伝達の役目をはたした。このため、二人は、後年、その責めを負って幕命によって切腹している。  幕府では、安政の大獄を強行した余勢をかって、各藩の尊攘論《そんじょうろん》を押えつけようとしている矢先だった。水戸藩に対して、勅諚を返還せよ、と命じた。  水戸城下では、忽ち、激派と鎮派が、意見を対立させた。  激派の有志は、城下から南西一里の長岡に屯集《とんしゅう》して、藩庁がもし幕命を容れて、勅諚を返上するなら、あくまでそれを阻止してみせる、と示威運動を起した。その頭数は百余名で、昼夜をわかたず監視兵を配備して、江戸との交通を、厳重に警戒した。渠《かれ》らは、のち天狗党の中心になった決死の尊攘の士たちだった。俗に長岡勢といわれたが、この中には、桜田門外に、大老|井伊直弼《いいなおすけ》を襲った大関和七郎、森五六郎、杉山弥一郎、山口辰之介、広岡与之次郎らもまじっていた。  その示威運動に押されて、幕府側も藩庁側も、ついに為すところがなかった。  いたずらに、藩内の二派の対立を険悪なものにする効果だけがあった。  激派の云い分は、こうだ。 「水戸家の本領は、名分を重んずることにある。朝廷より直接たまわりたる勅諚は、あくまでも各藩に伝達せねば、違勅《いちょく》の罪になる」  これに対し、鎮派の云い分は、こうだ。 「幕命に背いて、勅諚を回すことは、東照宮(家康)が三家を置いた主旨に反する。しかも、抗幕は、水戸藩の存立を危くするものだ」  この時、当時、水戸の家中で、聖典と称された『新論』を著した会沢正志斎は、鎮派に与《くみ》したため、忽ち、青年の間に、その声望は地に墜《お》ちた。激派の有志は、『新論』に火をつけて、正志斎の屋敷へ抛《ほう》り込んだ。  幕府は、水戸の激派弾圧にふみきった。  長岡派の主謀者金子孫二郎、高橋多一郎らを、直ちに幽閉し、一党を解散させよ、と命じた。  そこで、金子らは、脱藩《だっぱん》して、江戸へ趨《はし》った。彼らは、やがて、薩摩の有村治左衛門らと語らって、桜田門外に、井伊直弼を襲った。  この異変は、水戸藩激派に対する幕府の態度を、いよいよ強硬なものにした。  その年、藩主斉昭が、城中に急逝《きゅうせい》した。  主軸を失った家中は、収拾すべからざる混乱状態に陥った。  藤田小四郎が、狂躁性を帯びて来たのは、恰度、そうした騒然たる時だったのだ。  三  元治《げんじ》元年三月二十七日。  藤田小四郎は、水戸町奉行田丸|稲之衛門《いなのえもん》を首領に推して、筑波山上に、尊皇攘夷の狼煙《のろし》を挙げた。  この義挙は、ずっと前から、小四郎の肚裡《とり》で、企てられたものではなかった。  いわば、発作的なものだった。  その事実を知っているのは、藤田邸の老いた家僕だけだった。  小四郎は、その数日前、これまでの痛みに数倍する猛烈な頭痛に襲われて、なかば意識を喪って、牀《とこ》に倒れて、呻《うめ》きつづけた。痛みが、ようやく薄れた時、小四郎は、我破《がば》と、掛具をはねて起き上った。  看護の家僕は、その形相の凄じさに、おののいた。 「おれの生命は、あと二年と保たぬ。……このまま、為す事もなく死ぬのは、なんとしても口惜しい。……おれの力を、ひとつ、試してくれる!」  そう口走って、二十二歳の俊才は、幽鬼のていで、立ち上った。家僕は、恐怖のためにとどめることも叶《かな》わなかった。  馬を駆って、町奉行田丸稲之衛門の屋敷へ入った時には、しかし、小四郎は、悽愴《せいそう》の色を、双眸や口もとに刷《は》いていたが、態度は、いつもとすこしも変らなかった。  小四郎につづいて、斎藤佐次衛門、飯田軍蔵、竹内百太郎、岩谷敬一郎、千葉小太郎ら、激派の主たる面々が、ぞくぞくと、町奉行邸の門をくぐった。小四郎が、呼集したのだ。  小四郎が、これらの人々を前にして、とうとうと説きたてた尊攘論は、稀代の俊才が智能を傾けたやつで、反対派と雖も、それをきけば、翻然として味方に加わらざるを得ないほどの、一世一代の熱弁だったらしい。  小四郎の姿から発する妖気が、一同を魅了した、といえる。  わしは、胃癌のために、あと数ヵ月の生命と宣告された科学者と、将棋をさしたことがあるが、駒を動かしているあいだも、その男の体内に、癌細胞が、刻々と分散し、拡がっているのを感じて、それに堪えている者の気魄《きはく》に圧倒されて、息がつまりそうになった記憶がある。  小四郎の気魄は、まさに、癌と闘っていたあの科学者のそれと同じだったわけだな。  一議に及ばず、義挙の血盟が成された。  翌日、筑波山上に集ったのは、六十三名だった。  しかし、数日ならずして、百数十名に増した。那珂湊《なかみなと》、小川村、潮来《いたこ》村在の神官、郷士、農民なども交っていた。  くりかえすが、この義挙は、深謀遠慮によってなされたものではない。  藤田小四郎が、不慮の災禍に遭《お》うて、頭脳を狂わせたために、突然思いついた挙兵だったのだ。  もとより、名目は立っていた。  すでに朝廷より攘夷の勅諚は下っている。やがて、長州はじめ、各藩でも、攘夷の挙兵があるであろう。そこで、天下の動きにさきがけて、水戸学の栄誉のために、狼煙をあげて、因循姑息《いんじゅんこそく》の幕府に攘夷の発奮を促す。そして、機をえらんで、横浜の外夷を討つ。  尤《もっと》もらしい名目だが、識者がよく考えれば、ばからしいくらい単純な稚《おさな》い主旨でしかなかった。  だから、その振舞いも、きわめて、児戯的だった。  我らは、烈公の遺志を継ぐのだと称して、白木の輿《こし》に、烈公の霊位を祀《まつ》り、「贈|従《じゅう》二位|大納言《だいなごん》源|烈公《れっこう》神主」と大書した白布の幟《のぼり》をかかげ、それを軍神として奉戴《ほうたい》して、四月初旬、山を下って、日光へくり出した。  その時、隊列は、百七十名だった。  途中、宇都宮で、藩の老臣を訪ね、軍資金一千両を、脅し同様の談判で、得ている。軍資金など、まるで持たぬ義兵だったのだ。  日光を拠点にしようとしたのは、小四郎の脳裡に、標茅原の「天狗」があったからに相違ない。  日光奉行小倉|但馬守《たじまのかみ》は、押し寄せて来た義兵に対して、神域を冒すものとして、一戦をも辞さぬ厳然たる態度を示した。  むりに押し通ろうとすれば、祖廟《そびょう》は、兵火を蒙ることになる。  首領田丸稲之衛門は、小四郎を説き伏せて、下山することにした。  小四郎は、日光に拠《よ》らざれば、喪家の狗《いぬ》のごとく諸処を放浪することになる、と主張したが、隊士全員に反対されては、あきらめざるを得なかった。 「水戸天狗党」は、挙兵のはじめから、なんとも、あやふやな行動をとらざるを得なかった。  その檄文《げきぶん》をみても、主旨のあいまいさが、判る。 『東照宮、大猶公《だいゆうこう》(家光)には別して、深く御心を尽せられ、数百年太平の基を御開き遊《あそば》され候も、畢竟《ひっきょう》尊王攘夷の大義に本《もと》づかれ候儀にて、徳川家の大典、尊皇攘夷より重きは之なき様相成候は、実に勇々《ゆゆ》しき儀ならずや。(中略)其志誓って東照宮の遺訓を奉じ、姦邪《かんじゃ》誤国の罪を正し、醜虜外窺《しゅうりょがいき》の侮を禦《ふせ》ぎ、天朝、幕府の鴻恩《こうおん》に酬《むくい》んと欲するに在り』  よく読んでみれば、ひどくこじつけた文章だ。  始祖家康を、攘夷論者にしてしまっている。家康は、耶蘇《ヤソ》はきらったが、外国との交易はむしろ奨励している。自分も、それをやって、莫大な利益を得ている。平常、オランダの鉛筆を、便利なものとして使用している。朱印状もさかんに交付したし、重商主義者だったのだ。  鎖国をしたのは、三代家光からだ。  水戸藩士が、攘夷に躍起になる理由は、全くない。べつに、港を持っているわけではないから、外国の軍艦に入って来られた経験もなかったし、貿易開始で物価が騰《あが》ったところで、水戸藩の貧乏は、光圀以来のことで、それで今更、くらし向きが目に見えて苦しくなった次第でもないのだ。  無念の泪《なみだ》をのんだ小四郎が、隊列の殿《しんがり》となって、馬に乗って、山を下って行く途中——  路傍に、一人の娘が佇《たたず》んでいたが、小四郎がさしかかると微笑を湛《たた》えて、声をかけた。 「藤田小四郎様、お加減はいかが?」  小四郎は、眉宇《びう》をひそめて、娘を見下した。目もとのすずしい、色白の、さして美人ではないが、愛嬌のある顔だちであった。  身装《みなり》が、変っていた。ゆたかな黒髪を、そのまま、背中に長く垂らしていたし、細帯を腰の上でむすんでいた。徳川の治世以前の姿である。 「そなたは——?」 「はい。今市の宿はずれに倒れておいでの貴方様を、水戸まで送って進ぜました」 「おお! そなたが、あの時の親切な娘御だったか」 「はい。……お供をしても、よろしゅうございますか?」 「……?」 「お供をすれば、女子には女子の役目があると存じます」 「いや、やはり女子は——」 「いいえ、隊列にお加え下さるように願っては居りませぬ。二、三丁おくれて、ついて参ります」  娘は、名は|つや《ヽヽ》と告げておいて、自分勝手にきめてしまった。  小四郎は、馬を進め乍《なが》ら、時折り振りかえってみた。  |つや《ヽヽ》の姿は、二丁あまり後方を、歩いて来ていた。  四  天狗党始末は、くわしく語っていると、夜が明けてしまう。  経緯《けいい》は、かいつまんで話そう。  日光をあきらめて下野《しもつけ》国|太平《おおひら》山に楯籠った一党に対して、幕府は、老中牧野備中守貞明の名をもって、宇都宮はじめ、古河、高崎、館林、安中、足利、福島など、関東二十九藩に向って、武力をもってその行動を阻止するように指令した。しかし、各藩は、静観の態度をとった。  軍資金もなく、食糧も乏しく、孤立無援の烏合《うごう》の衆は、いずれ、間もなく、士気がくじけて、自然消滅するのではあるまいか、と看《み》たのである。  一方、水戸藩内では、激派が筑波勢に声援を送ったことはいうまでもない。保守派である鎮派の方は、幕府と組んで、この際、一挙に筑波勢も激派も制圧しようとせわしい動きを示した。  江戸にあった藩主|慶篤《よしあつ》は、側用人《そばようにん》美濃部又五郎、目付役山国兵部、歩兵目付朝倉源太郎、それに立原朴二郎の四人を、急遽《きゅうきょ》、水戸へ遣《つかわ》して、太平山へ登らせた。四人は、多聞《たもん》院に宿泊していた田丸、小四郎らと会見して、挙兵の中止を説いたが、勿論、翻意させられるものではなかった。  四人はやむなく、一党に、太平山に拠ることの不利を説いて、筑波山へ移動をすすめて、帰った。  天狗党は、幕府追討軍の包囲下に、太平山に楯籠ること五十日に及んだ。  その間に、包囲した各藩の軍勢から、かえって、天狗党の方へ加わる者も出た。また、各地から馳《は》せ参ずる者の数も日を追って、増してゆき、ついに、天狗党は二千を越える大集団にふくれあがった。  ふくれあがったのはいいが、軍資金がなく、食糧の乏しい義軍である。指導部が、いかに軍律を厳重にし、良民を侵してはならぬと声をはげましても、破廉恥《はれんち》な行為は、日毎に増した。  新徴組崩れの山田一郎という男は、資金調達係りを命じられたのを機に、府中(石岡)、真鍋町あたりの木綿商人が、横浜で外国交易でしこたま利を得たのを探って、町の妓楼へ呼び集め、軍用金を強請した。山田は、一万数千両の大金を集めるや、そのまま、江戸へ逐電してしまった。  山田のような男に、資金調達をまかした指導部が間抜けだったことになる。  また——。  那珂湊、小川、潮来などから参加した博徒《ばくと》の群は、勝手に、野州の壬生《みぶ》町や栃木町へ出かけて行き、恐喝手段で軍資金を奪いあげ、不成功におわると、忽ち狂暴性を発揮して、あらゆる放淫|狼藉《ろうぜき》を働いた。ある一派などは、真鍋町にむかって、大砲をぶっぱなして、十数人の町民を殺傷している。これらの徒党を指揮したのは、水戸下町の藩医の養|嗣子《しし》田中|愿蔵《とくぞう》だった。田中は、やがて、除名処分になり、のち奥州の塙《はなわ》で捕えられ、水戸へ送りかえされて、梟首《きょうしゅ》になった。  放火・掠奪《りゃくだつ》・強姦など、乱暴を働く党に対して、民衆は、すっかり面をそむけてしまった。  主謀者藤田小四郎は、あい次ぐ破廉恥な行動に、やむなく、拠点を、太平山から、筑波山に移した。  ここにいたって、幕府では、いたずらに、日をのばしていられなくなり、関東十三藩に対して、一月以内に、暴徒鎮圧を命じた。  水戸藩内でも、強硬な幕命を受けて、軍勢を、筑波山へさし向けなければならなくなった。しかし、江戸の藩邸には、武田|耕雲斎《こううんさい》、山国兵部らがいて、藩主は容易に動けない。そこで、門閥の保守派——鎮派の主流である鈴木|石見守《いわみのかみ》、朝比奈弥太郎、市川三左衛門らの城代、宿老らは、非常の手段をとることにした。  渠《かれ》らは、まず、五百の藩士を引具して、江戸へ入り、小石川邸で、藩主に面接し、幕府を楯にとり、激派の狼藉ぶりを訴え、このままでは、藩の存亡にかかわる、と、強く云いそえた。  藩主|慶篤《よしあつ》は、定見を持たぬ凡庸の人だった。  忽ち云いまくられて、武田耕雲斎、山国兵部ら、その他激派の幹部をことごとく、側近からしりぞけた。そして、鈴木石見守、市川三左衛門ら保守派に、藩政の実権を与えてしまった。  市川三左衛門が、総指揮をとり、討伐軍を編成し、七百余の部隊を率いて、幕府軍の歩・騎・砲隊三千に合流して、千住から奥州街道を北進して筑波|山麓《さんろく》に至ったのは、それから数日後だ。  藤田小四郎は、もともと幕府軍とは、交戦する意志は、毛頭なかった。はずみで、下妻口で、衝突したが、戦意がないので、忽ち敗れて、退いてしまった。  幕府軍と水戸討伐軍は、緒戦《しょせん》の勝利に上機嫌になり、また、天狗党の意外のもろさに、あなどりをおこし、その夜、下妻の陣営で、飲めや歌えの酒宴を催した。  これが、天狗党に、急報されるや、小四郎は、下妻出身の飯田軍蔵を呼んで、 「天狗党の強さを、もの見せてやれ! いか様な残忍の攻撃も、かまわぬ!」  と、命じた。  その形相は、悪鬼にでもとり憑《つ》かれたように、凄じいものになっていた。頭痛の発作が近づいていたのだ。  飯田軍蔵は、兵三百を引具して、山を下って、間道を抜けて行った。  小四郎は、奇襲隊を送り出してから、四半刻ばかり、苛立《いらだ》たしげに、歩きまわっていたが、急に、「おれも行こう」と云って、数名をひきつれると、闇の中へ奔《はし》り出した。  小四郎は、たちまち、奇襲隊に追いつくと、先頭へ出た。間道を抜けて、多宝院の後方をまわり、暁闇《ぎょうあん》を衝《つ》いて、一気に、討伐軍の陣中へ、斬り込んだ。  討伐軍は、高崎、下館、結城《ゆうき》、壬生などの藩兵を加えて、六千に及ぶ大軍であったが、一兵のこらず酔いつぶれていて、抗《あらが》ういとまもなく、大根のように斬られた。  小四郎も、縦横《じゅうおう》に白刃をふるって、駆けまわった。  そのさなか、小四郎は、ひときわ目立って、おそるべき敏捷《びんしょう》さで、斬りまくる味方を一人みとめて、はっとなった。  そのものは、天狗の面をかぶっていたのである。  呶号をあげて、太刀向って来る幕府軍監永見貞之丞も、その者に、ただの一太刀で、血煙りをあげさせられた。  ——あいつだ!  小四郎は、確信した.  しかし、敵陣をふみにじって、ひきあげる朝には、もう、その者の姿は、どこにも見当らなかった。  五  幕府が、再び討伐軍を編成し、若年寄田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》意尊を総督として、一万三千の大軍を江戸から送り出すや、天狗党の運命は、決った。  皮肉なことに、この頃、いったん藩政の実権を握った市川三左衛門ら保守派が、再び政権の座からひきずりおろされ、激派が主導権を握ったり、さらにまた、市川が率いる一隊が水戸城を占拠したり、これを追うために、支藩の宍戸城主松平|大炊頭《おおいのかみ》頼徳が、山国兵部、武田耕雲斎を加えて、三千の兵を引具して、押し寄せたり、てんやわんやの状態になったために、天狗党もまた、頼徳の軍へ合流して、叛軍変じて正軍のかたちになってしまった。世間では、渠らを大発勢と呼んだ。  つまり——。  奇妙な事態を生んだわけだ。  幕府討伐軍は、諸藩兵に、市川三左衛門ら保守派の軍を加えた。  一方、城を占拠した保守派を抑えるために向って来た松平頼徳に、武田耕雲斎らの激派が加わりさらに藤田小四郎の率いる天狗党が、合流したのだ。 『尊攘記事』なる一書に、 「一起一仆、互いに噛呑《しどん》し、父子|仇視《きゅうし》し、骨肉相|屠《ほふ》り、その状殆ど名を国事に借りて、恩讎《おんしゅう》を逞《たくましゅ》うする者に類す」  と、ある。  両軍は、那珂湊で、凄じい攻防戦を展開した挙句、大発軍は、完全包囲された。苦慮した松平頼徳は、自ら幕府軍の陣営に和議のためにおもむいた。田沼玄蕃頭は、頼徳を捕え、賤魁《せんかい》の名のもとに、一切の官位を剥奪《はくだつ》し、改易処分にして、切腹させてしまった。その家臣四十二名をも首を刎《は》ねる残忍さを敢《あえ》てした。  頼徳に代って武田耕雲斎を総帥とするかたちになった大発勢は、容易に屈しなかった。  しかし、局地戦争をくりかえすたびに、力が弱まり、また、耕雲斎と田丸が反目したりして、所詮《しょせん》烏合の衆たる欠陥を露呈するようになった。  耕雲斎は、ついに、決意して、次の意見を出した。  この上は、京へ上って、禁裏守衛総督の一橋慶喜公にすがって、志を朝廷に奏上し、生命を朝令にまかすべきである、と。  この意見が通り、生き残った大発勢は、西上の途についた。元治元年十一月|朔日《ついたち》だった。耕雲斎が、総指揮をとった。総勢八百余。  いうならば、これは、敗走だ。  敗走して行くさきざきで、これをはばむ各藩の隊と衝突して、勝ったり負けたり、逃げたり、飢えたり、屍体を棄てたりして、高崎から諏訪へ入り、伊那路を越えて、中仙道の馬籠《まごめ》に入った。  藤村の『夜明け前』には、当時の天狗党の通過の模様が、いきいきと描写されている。当時の記録によれば、こうだ。  藤田小四郎は、紺糸おどしの鎧《よろい》、金鍬《きんくわ》形の筋兜を背負い、黒ビロウドの陣羽織。武田伊賀(耕雲斎)は、黒|葵《あおい》の紋付、紫の陣羽織、腰には黄金の采配《さいはい》、銀覆輪《ぎんぷくりん》の鞍を置き、鳥の羽根を打ち出した兜、金の武田菱の紋を浮かせた緋おどしの鎧、といういでたちだった。  総勢は、騎馬武者二百余名、小荷駄五十、乗|駕籠《かご》五十五挺。おそらく、これは、和田峠、松本、諏訪二藩の二千の藩兵の攻撃をくらった時の、負傷者を運んでいたものだろう。  車台附大砲など十五門、歩兵数百。  敗走とはいえ、堂々たる陣容ではあったのだな。  中津川では、命数尽きた重傷者をすてた。  美濃の大井宿に入るや、党士らは、白刃をひっさげ、半弓、槍をひらめかせて、附近の豪農へ押しかけて、食糧を強請した。  岐阜、大垣の城下をさけて、道を北にとり、長良川を渡った。殆どの藩は、申し合せたように、天狗党が国境を越えるまで、黙って見送っておいて、越えると同時に、その後姿へ向って、発砲したものだ。多少天狗党に同情したふしもうかがわれるが、さわらぬ神にたたりなしの気持もあったろう。  天狗党は、間道を抜けて、芥見《あくたみ》から揖斐《いび》に入った。  ところが、すでに、彦根、大垣の藩兵が、関ヶ原その他に陣を布き、幕府の目付役由比図書が指揮をとって、迎撃態勢にある情報が入った。のみならず、京都に在った慶喜が、大津に移動している、ともきこえた。  やむなく、天狗党は、美濃越前の国境蠅帽子峠(灰星峠)を越えた。  すでに、季節は、最寒であった。  行軍に難渋をきわめ、どうにか駕籠で運んで来た和田峠以来の負傷者をかかえては、とうてい雪中の峠路を越えることは不可能であった。合戦にそなえて、兵器弾薬を放棄することはできなかった。やむなく、泪をふるって、歩けぬ負傷者を、斬った。  蠅帽子峠を越えれば、越前国であった。  越前大野藩では、小藩のため、手負い猪《じし》の天狗党と一戦を交えることの不利をさとって、秋生はじめ中島、法慶寺など沿道の民家を焼きはらい、橋を撤去して、その前進を阻《はば》んだ。  天狗党は、泊る家を失い、飢餓と風雪に悩みつつ、遠廻りして鯖江《さばえ》藩内に入った。  数日を過ぎ、小倉より今庄に入って、ようやく、休息をとり、福井藩の領内に入った。  敦賀郡|新保《じんぼう》に至ったのは、十二月十一日だった。実に、常陸より二百十余里、四十余日の強行軍だった。  天狗党は、ようやく、目的の京都を、目睫《もくしょう》にしたのだが、そこで、釘づけにされてしまった。  十余丁さきの葉原《はんばら》宿には、加賀藩の隊が、布陣していた。それよりも、一行を愕然とさせたのは、自分たちを討ちに向って来る軍勢の総督が、渠らのたのみの綱として来た慶喜自身だったことである。  天狗党は、ついに、降服書を、加賀藩へ提出した。十二月十七日の朝のことだ。  加賀藩の、天狗党に対する態度は、士を遇するものだった。一日三斗の酒と、衣服、煙草、紙、菓子なども配った。  一行は、敦賀に移され、本勝寺、本妙寺、長遠寺に分散収容された。  ところが——。  若年寄田沼玄蕃頭が、馬を駆って至るや、天狗党処遇は、一変してしまった。  一行は、三寺から、鰊肥料《にしんひりょう》の土蔵十六棟に、幽閉された。  俄《にわか》造りの牢獄である。  各人の所持品は悉《ことごと》く押収。幹部二十余名をのぞいたすべての党員の足には、松の厚板でつくった足枷《あしかせ》を嵌《は》めた。土蔵の窓は、すべて釘づけにし、昼も内部を闇にした。  食事は握り飯一箇に、ぬるま湯一杯。日に二度の支給だった。両便用の桶を片隅に置いたので、臭気が満ちた。  厳寒のさなかに、夜具も与えぬ残忍な処置だった。  この頃——。  藤田小四郎は、皮肉なことに、持病となっていた頭痛が、ピタリと止まっていた。そのために、小四郎一人だけは、四肢が氷と化しそうな土蔵内で、なんの苦痛もない、いっそすがすがしい態度を保てていた、という。  天狗党全員の処刑は、翌慶応元年二月四日から五日間にわたった。  刑場は、敦賀の町はずれの、来迎寺の裏手ときめられた。  まず、四日の朝、武田耕雲斎、山国兵部、田丸稲之衛門、そして、藤田小四郎が、ひき出されて、斬られた。  小四郎が、処刑の座に就いた時であった。慢幕《まんまく》の外に、警士の阻止の声があがった。  と——鳥の迅《はや》さで、馳せ入って来たのは、若い女であった。  左手に、無反りの白|鞘《ざや》の刀を携《たずさ》えていた。  日光下山以来、つき添うて来た|つや《ヽヽ》という娘であった。 「藤田小四郎の介錯、この女子が、つかまつる」  |つや《ヽヽ》は、凛乎《りんこ》たる気色で、叫んだ。  検使は、眉宇をひそめた。  小四郎は、検使を視やると、 「これには、仔細がござる。何卒——」  と、願った。  検使は、顔をそむけて、見て見ぬふりをすることにしたのだ。小四郎は、|つや《ヽヽ》が、抜刀して寄るや、微笑して、 「やはり、標茅原《しめじがはら》の天狗は、そなたであったのか」  と、云った。  |つや《ヽヽ》は、こわばったかたい面持で、何ともこたえず、その代り、ふところから、天狗の面をとり出して、顔につける。  小四郎の首は、のど皮一枚のこす抱き首に、両断されて、その膝に落ちた。  それを為した|つや《ヽヽ》は、衂《ちぬ》れた刀を逆手に持つと、おのが腹部へ、突き立てた。そして、首のない小四郎のからだへ、凭《もた》れかかると、動かなくなった。天狗の面が剥《は》がれると、目蓋《まぶた》を閉じたその顔は、やすらかな表情をうかべていた、という。  網走囚徒  一 「わしが、会津|白虎隊《びゃっこたい》やら水戸天狗党で、意表を衝《つ》いた秘話を披露《ひろう》したので、あっちこっちから、あんたのところへ、抗議の手紙が殺到しとるそうだな。はっはっは。結構、結構——どうせ、あんたは荒唐無稽《こうとうむけい》を売物にしている小説書きじゃろうから、非難嗷々《ひなんごうごう》は覚悟の上じゃろうて。ところで、今日は、すこし趣向を変えて、史上有名な騒動、事件ではなく、殆《ほとん》ど世に知られて居らん話をするかな」  等々呂木神仙《とどろきしんせん》は、焼酎《しょうちゅう》を盛ったコップを盆にもどすと、立って行き、古ぼけた書棚から、一綴りの書類を把《と》って来て、私に手渡した。  それは、毛筆でしたためられた何者かの手記であった。 「古いもののようですが、いつ頃のものですか?」  私が、訊ねると、神仙は、かぶりを振ってみせ、 「明治のおわり頃とでも思ってもらおう。書いた奴の名も判らん。……あんたは、わしの話に、日本男子物語、という題をつけとるが、これは、悲壮な武勇|譚《たん》ではないよ。悲惨きわまる人間の生地獄の報告書じゃ。但し、こんどは、嘘《うそ》はみじんも入って居らん。百年前に、わが日本で起った現実の物語じゃ」  近頃は、小説やテレビや映画で、ちょっとした北海道ブームが起っとるな。若い奴らは、北海道、ときくと、なにやら、ロマンチックな風物を連想するらしい。  北海道が、どういう方法で開拓されたか、殆ど知る者は居らん。北海道とは、曾《かつ》て、勇気ある開拓者によってひらかれた自由なる天地だぐらいに思っている。道産っ子自身までが、そう思っている。  とんでもない、思いちがいだ。  北海道は、血と汗と、憎悪《ぞうお》と怨嗟《えんさ》によって、ひらかれた土地だ。  明治のはじめ、天皇の周辺で、勝ち犬どもが、明けても暮れても権謀術数を弄《ろう》して、栄達をむさぼって居る頃、蝦夷《えぞ》の天地は、どうであったか、というのだな。勇気ある開拓者たちに与えられた自由なる天地どころではなかった。アメリカの西部開拓とも、全く質を異にした。そこには、自由のひとかけらも、正義のひとつまみもありゃしなかった。  明治政府が、北海道を開拓しようと、議決したのは、明治三年のことだ。  黒田清隆が、開拓使次官となって、渡り、樺太《からふと》までおもむいてみて、樺太はどうにもならん、と匙《さじ》を投げて、蝦夷を、集治監《しゅうじかん》の囚人労力でひらこう、と考えていた。  黒田清隆は、曾て、五稜郭《ごりょうかく》の戦いで、榎本釜次郎の率いる幕府を降した官軍の参謀だった。この功によって、渠《かれ》は、二十九歳で、開拓使次官となり、翌年には長官代理に出世した。  黒田は、北海道開拓に、アメリカ式パイオニア・システムを、採った。そのために、アメリカから、わざわざ、ケプロン(合衆国政府農務局長)を呼んで来て、その指導に当らせた。機械、技術を、どんどん輸入した。  黒田は、先輩であり、おのれの推挙者であった大久保利通の殖産興業《しょくさんこうぎょう》プランを、大胆に実行した。  荒野のどまん中に、内地でも滅多に見られぬ最新式の洋館を、つぎつぎと建てた。新しい紡績工場、製革工場、製粉場、製紙工場、製糖所、麦酒《ビール》醸造所を、各地に設けた。時期が早くて、そのうちのいくつかはみごとに失敗したが、すべて、後代へ貴重な示唆《しさ》をのこしたことはまぎれもない。  黒田が最も腐心したのは、労働力だ。広大な未開の地に、住んでいるのは、ひとにぎりのアイヌ族だけだった。日本人など、千もかぞえるに足りなかった。そこで、黒田は、まず、屯田兵《とんでんへい》設置を考えた。  屯田兵の第一陣が、札幌近郊の琴似村《ことにむら》に入ったのは、明治八年だ。  無限の荒野と森林が、ひろがっていた。熊や鹿や狼や狐が、人間の姿を見かけても一向におそれる様子もなく、悠々と横行していた。当時、道内には、数十万頭の鹿が棲息《せいそく》していた、といわれている。  鮭《さけ》も鱒《ます》も、無尽蔵だった。  屯田兵は、多くは奥羽諸藩の下級士族から募集された。国境警備、開拓、公安の三役を担った。政府としては、失業士族の救済という、恰好《かっこう》の名目が立った。  屯田兵は、起床ラッパで床を蹴って起き、集合ラッパで整列し、突撃ラッパで土をたがやした。そして、開墾のあい間に、鉄砲をかついで、軍事教練をやった。  明治十年の西南戦争では、この蝦夷屯田兵が、元込めレミントン銃をかまえて、九州の戦場を馳《は》せめぐった。渠《かれ》らの大半は会津士族だった。期せずして、会津の敵《かたき》を、鹿児島で討ったわけだ。  屯田兵は、しだいに殖えて、空知、雨竜、上川、根室、釧路、北見など、全道の要地に配置された。募集が中止になったのは明治三十二年だが、そのあいだに、四万人に近い屯田兵とその家族が、未開の原野にちらばって自然の暴威と闘った。  しかし、屯田兵の苦闘も、囚人労役者のそれに比べると、問題にはならなかった。  囚人は、文字通り、蝦夷開拓の人柱になった。  北海道に、現代で謂《い》う強制収容所——集治監が設けられたのは、明治十四年だ。  囚人を収容するだけの目的なら、なにも、わざわざ、北海道まで、金と時間を費して、危険な押送《おうそう》をする必要はなかった。囚人労働力によって、開拓するためだった。  二  集治監の建築は、当時の政商大倉喜八郎の大倉組が請負い、十万円の国費で、まず、札幌に近い月形村に、つづいて、空知、釧路に、それから二十年代に入って、今日までのこって有名な網走につくられた。収容人員は、だいたい七千から八千だった。  政治犯はじめ、重罪人、凶悪犯が、全国から押送されて来た。自由民権を叫んで政府に反抗した奥宮|健之《たけゆき》、群馬自由党の宮部襄《みやべのぼる》、加波山《かばさん》事件の志士小林篤太郎、玉水嘉一なども加えられた。  西南の役、佐賀の乱、神風連の乱から、函館戦争、福島事件までさかのぼって、あらゆる反政府党の志士が、網羅《もうら》されていた、といえる。  これらの志士は、殺人強盗の極悪人と全くなんの差別もなしに、残忍な取扱いを受けたのだ。帝政ロシヤの政治犯のシベリヤ流刑、サガレン流刑にも似て、まことに、苛酷《かこく》きわまる処置だった。  レーニンやスターリンなど、当時の政治犯の主要人物たちでさえ、流刑地に在っては、自由にのさばることができたというではないか。日本の明治の志士は、ただの悪党扱いしかされなかった。  集治監の国事犯たちは、脱獄を考え、成功したあかつきには、シベリヤへ逃亡しようと申し合わせていた、という。  しかし、逃亡は、不可能だった。  集治監の周辺には、屯田兵が配置された。その屯田兵の村の道路、家屋は、囚人がつくった。  明治十八年に記された当時の大政官金子堅太郎の「北海道三県巡視復命書」を披《ひら》くと、囚徒に対する政府要人の考えかたが、明白だ。 「かれらはもとより暴戻《ぼうれい》の悪徒なれば、その苦役に堪へず、斃死《へいし》するとも、尋常の工夫《こうふ》が妻子を遺して骨を山野に埋むるの惨情と異なる」とか、「斃《たお》れ死してその人員を減少するは、監獄費支出の困難を告ぐる今日に於て、万止むを得ざる政策也」とか、「囚徒を駆つて尋常工夫の堪ゆる能はざる困難に当らしむべし」とか、平然と記されている。  これが、正論として、堂々と通ったのだ。  金子堅太郎は、ハーバード大学を出た、当時最高のインテリだ。それが、こういう古代奴隷制度の復活にも似た虐待をみとめている。金子は、のちに、伊藤博文の殊遇《みとめ》を得て、明治憲法草案の作成に協力した。  志士囚人の抹殺《まっさつ》など、猫の仔をひねり殺すほどにも考えていなかったのだな。  明治二十年代に入ると、囚人に対する強制労働は、ますます苛酷なものとなった。  自由党の政治犯たちが、いびり殺されるよりは、いっそ、大自然の中で、おのが自由にえらび得る場所で死のう、と脱走をつぎつぎと企てたのは、その頃だ。そして、一人のこらずが、銃殺され、あるいは、のたれ死した。  空地集治監の囚人は、殆どが、幌内《ほろない》炭鉱の坑内掘りに動員された。ある者は、腰にロープをしばりつけられ、坑内深く、荷物のように吊り下げられた。ガス探知のためだった。つまり、人間モルモットというわけだ。これに抗《あらが》う者は、容赦なくその場で斬殺された。  幌内炭鉱は、明治政府自慢の虎の子だった。当時の工部卿伊藤、陸軍卿山県までが、現地視察におもむいている。  勿論《もちろん》、鉄道がなければ、いくら日本一の炭鉱でも、宝の持ちぐされだ。そこで、日本三番目の鉄道|敷設《ふせつ》が、アメリカ人技師クロフォードの指導の下に、突貫工事ですすめられた。  幌内——札幌——小樽間だ。  この敷設は、常識では到底考えられぬ凄《すさま》じい人海工事だった。生贄《いけにえ》は、囚人だった。枕木一本に、囚人一人の割合で殺された。  北海道の鉄道敷設という地獄工事は、この時からはじまる。  荒寥《こうりょう》たる白雪の石狩平原を、はじめて、義経号、弁慶号という汽車が、汽笛をあげて疾駆するのを眺めて、生き残った囚人は、みな呶号《どごう》し、号泣《ごうきゅう》した、という。  ところで、幌内炭鉱とその鉄道には、二百三十万という巨費が投じられた。労役に従事した囚人は、全く無報酬で、猶且《なおか》つそれだけの国費を必要としたのだ。ところが、奇怪なことに、政府は、明治二十二年、この国家財産を、わずか三十五万円で、北海道炭鉱鉄道会社に、払下げている。しかも、十箇年年賦だ。のみならず、ただ働きの囚人労働者千人を毎年提供する特典まで与えている。  つまり、これには、次のようなカラクリがあった。  北海道炭鉱鉄道会社の大株主は、皇室であり、発起人は華族と政商であった。これが、やがて、三井天国の基となった。  ついでに、こういうカラクリの例を二、三挙げておくと——。  札幌麦酒醸造所が、二箇年据置、八年年賦で、政商大倉喜八郎へ、三分の一の価格で払下げられた。紋鼈《もんべつ》製糖所は、伊達邦茂の手中に帰した。その製糖所に、政府が投下した資金は二十六万円だったが、伊達はたったの千円でわがものにしたのだ。なんとも、ばかげた話だが、この不正は、一向に、世論のたたくところとはならなかった。  この頃は、すでに、開拓使時代から、北海道庁の時代に移っている。  初代長官岩村|通俊《みちとし》の施政方針演説の草稿が残っている。 「……是等の官立工場等を、民業に移さんことを規画《きかく》し、漸次《ぜんじ》人民の請願に応じ、貸下げまたは払下げの処分を為せし所以《ゆえん》也。是一方は移住人民の為に産業を授け、一方は官庁営業の損失を免がれ、一挙両得《いっきょりょうとく》の事なれば也」  当時の特権階級にとっては、なんとも笑いの止まらぬ名演説だった。  この施政方針のもとに、大商人、華族、高級官僚は、われさきにと、北海道の広大な土地を、濡《ぬ》れ手で粟《あわ》の掴《つか》み取りをやった。そして、そこへ小作人を送り込み、家来を差配人に置いて、おのれらは、東京の豪壮な邸宅で不在地主となった次第。  その最も巨大なスケールは、明治二十二年の、二百万町歩に及ぶ森林地帯の皇室財産への編入だ。こうして世論を封じておいて、特権階級は、おのおの、途方もない私腹をこやした。例えば、三条実美を親玉とする華族組合は、一億五千万坪の土地を掴みとったのだ。タダでじゃ!  三  等々呂木神仙の慷慨《こうがい》は、それから、二時間ばかりつづいたが、私は、適当な相槌《あいづち》を打っておいて、その古びた手記をもらうと、書斎へ帰って来た。  手記は、あまりうまくない文語体で綴《つづ》られていた。どうやら、政治犯らしい人物が、監獄を脱走して、あるタコ部屋の土方になった時のことを記録したものであった。その年代も、その手記者の名も、ついに不明のまま、私は、これを書きかえて、発表することにした。  すなわち、以下が、それである。  曠原《こうげん》の上を吹きつのる寒風は、日毎に酷烈《こくれつ》なものになった。零下四十度の寒波が襲って来ると、ツルハシやシャベルは、あやまって、手が触れると、忽ちへばりついてしまい、無理にひきはなそうとすると、皮膚は、ぼろきれのようにべろべろと剥げ落ちてしまう。大半の者が、どこか凍傷にかかっていた。自分の吐く息で睫毛《まつげ》が凍《い》てつき、鼻孔がふさがり、呼吸も困難になった。戸外での小便は、即座に、そのまま氷柱になった。  屋内も、板壁の隙間《すきま》から吹き込む雪で、巨《おお》きな吹きだまりが、いくつもできた。ストーブに、いくら薪《まき》を投げ込んでも、背中は絶えず、冷水をあびているように、ざわざわと悪寒《おかん》が走っていた。真夜中になると、立木の裂ける悽愴な音が、つづいた。  葦笛を一度に百も吹くような不気味な風の音は、一夜中、つづいている。  自分は、ストーブの脇にうずくまって、宙を瞶《みつ》めていた。もう三時間も、そうしたまま、じっと動かずにいる。  思考能力も、尽きていた。  自分は、そうやって、動かずにうずくまっている石像であった。  背中を、小突く者があって、自分は、のろのろと視線をまわした。  陣内という老人が、立っていた。どこで手に入れたのか、大豆ほどの大きさの氷砂糖を、自分の掌にのせた。  あまり人と口をきくことのない老人であった。頭髪が真白で、貌《かお》には傷痕《きずあと》のような深い皺が無数に刻まれているので、六十も半ばを過ぎたように見えるが、実は、まだ五十代かも知れぬ。六尺ゆたかの巨躯で、太い腕や盛り上った肩など、まだまだ逞《たくま》しかった。  自分は、まだ、この陣内老人と親しく口をきいたことなど一度もなかったので、どうして、貴重な氷砂糖を呉れるのか、判らなかった。  老人は、自分の傍にうずくまると、 「お前さん、とうとう一人になったな」  と、云った。  半年前、新入りとしてやって来た時、自分の仲間は、十五人いたのである。そのうち、七人が逃亡を企てて殺され、四人が病死し、二人が自殺し、一人が喧嘩《けんか》をして重傷を負うて数日後に息をひきとったのである。 「お前さんも、もう、生きているのが、面倒くさくなった様子だな」 「……」 「永い歳月、こういうくらしをしていると、自殺したくなった奴の様子が、手にとるように判って来る。黙って眺めていると、必ず自殺する。……たったひとつしかない生命を、自分で始末することはない。せっかく生れて来たのだ。定められた寿命までは、生きのびた方がいい。……なにがなんでも、ずらかってみせるという執念《しゅうねん》を燃やしてみちゃ、どうだね?」 「お爺さん、あんたも、幾度か、逃亡したのじゃないのか?」 「ああ、やった。監獄の脱走を、五度やったな。わしは、三度目の脱走の時に、殺された——ことになっている。いまは、幽霊さ。陣内礼吉という名前なんざ、どこの戸籍にもありゃしねえ……どうだ、ひとつ、逃亡してみるか?」 「……」 「お前さんが、その気になりゃ、この十勝の地図を、わしが書いてやる。地理を知らずに、ずらかろうとするから、すぐ捕《つかま》ってしまうか、さもなけりゃ、のたれ死するのさ。……しかし、いくらくわしく地図を書いてやっても、ずらかることのできねえ奴がいる。気力のつづかない奴だね。わしの経験で、判る。……わしは、お前さんが来た時から、こいつは、ずらかることができるのじゃないか、という予感がした。十五人やって来て、お前さん一人が生き残ったのが、なによりの証拠だ。お前さんは生きのびられる運命を持っているように思われる。……しかし、自分から、自殺したくなったんじゃ、話にならねえ」  老人は、微笑して、かぶりを振ってみせてから、 「ひとつ、むかし話を、きかせようか」  と、云った。  自分は、老人の話に耳をかたむけることにした。  老人は、語り出した。  四 「いまの、このタコ部屋は、すべて、集治監の飯場《はんば》制度を、まねたものだ。名目だけは、いまは募集制度だし、民間の請負仕事だが、飯場の内容は、集治監時代と、ちっとも変っちゃいねえ。人夫も、囚人と同じだ。娑婆《しゃば》からはじき出された奴、破産した奴、刑事に追いまわされている奴、心中の片われ、監獄から脱走して来た奴、お前さんのようにな。はは……かくさんでもいい、わしには、ちゃんと判る。  ただ、ちがっているのは、囚人の労働は、すこしでも長生きさせて使おうというのではなく、どんどん使い殺してしまうやりかただった。国事犯というのは、そういう意味では、おあつらえ向きの人間だった。わしも、その一人だった。  わしが集治監に入れられたのは、明治十八年の秋だった。もうふた昔になる。当時の元老院が、決議して、全国の政治犯と重罪囚人を、北海道へ集めて、豚のように殺してしまうことにしたのだ。江戸時代でいえば、島送りというやつだ。佐渡の金山《かなやま》の掘子《ほりこ》にして、使い殺すやりかたをそっくりまねたわけだ。わしらが送り込まれたのは、釧路集治監だった。わしらは、まず、アトサヌプリ硫黄山の開発に使役された。総員八百人だったが、八つの組に分けられ、数十人の看守に監視され乍ら、十里の山道を登って、硫黄山に到着した。八百人に、それぞれ犯罪の内容、逃亡の前科によって、監視のされかたがちがっていた。ある組は、タラハメという分銅つきの鉄の鎖で、二人ずつ、つながれていた。歩く時も寝る時も、仕事をする時も、その鎖でつながれたままだった。一人が仆《たお》れれば、もう一人もまきぞえをくらった。仕置までも、とばっちりをくらった。手錠《てじょう》をかまされ、ロープでつながれたまま労働させられる囚人が大半だった。  火薬の原料の硫黄を採取する仕事だった。亜硫酸《ありゅうさん》ガスと硫黄の粉末で、囚人たちは、まず目をやられた。失明者と肺患者が、続出した。そのうちに、顔や手足が、むくんで、蒼ざめて、ぶくぶくにふくれる水腫病《すいしゅびょう》が起った。腹四分の粗食では、体力が保てる道理がなかった。医療も休息もあったものではなかった。  とうとう、満足な五体の人間は、一人もいなくなった。  わしらが、抗議すると、看守はせせら嗤《わら》った。 『貴様たちの全滅が、お上からの命令だ。あとには、いくらでも、待機して居るぞ』  わずか二箇月の労役で、二百人を越える仲間が斃《たお》れた。逃亡を企てる者、反抗する者は、その場で、射殺されるか、日本刀で斬られた。それでも、逃亡を企てる者は、あとを絶たなかった。  呼吸はしていても、使いものにならぬ者は、みな生き埋めにされた。首だけをのぞけてやる残忍な処置だった。なぜ、いっそ、鉄砲で撃ち殺してやらなんだのか。  いまも、手錠や鉄鎖《てつぐさり》をはめられた数百の死体が、アトサヌプリの原野に、ねむっている。わしは、あの山麓に生い茂っていた巌紅蘭《がんこうらん》や、野面《のづら》いちめんに芳香をまいて咲き乱れていたイソツツジのあざやかな美しさを、いまでも、思い出す。  硫黄山の経営者は、安田善次郎だった。あいつは、囚人を使って、莫大《ばくだい》な利益をあげ、そいつで、銀行をつくり、財閥《ざいばつ》の基礎をかためたのだ。  北海道開発は、みんな、集治監の囚人の力によって、なされたのだ。  熊や狼や鹿しか棲息しない原始林にわけ入って、囚人は、幹線道路をつくったのだ。  巨樹一本を伐り倒すにしても、当時は、技術も未熟なら、道具もなかった。  看守たちは、手錠や足鎖をかました囚人を、拳銃と刀で威嚇《いかく》して、樹上へ追いあげた。囚人を数珠生《じゅずな》りにしておいて、その重みで、倒したのだ。巨樹の頂きにぶら下った人間は、当然、死傷する。酸鼻《さんび》をきわめた光景だった。紙きれのようにペしゃっと圧死する者、首や手足が折れる者、宙へはねとばされて、隣りの樹枝へ吊りさがる者——手錠や足鎖をかまされたままだから、遁れようはないわけだ。地獄図絵とは、あのことだった。  架橋《かきょう》も悲惨だった。架橋技術などまるきりないのだ。囚人は、文句なく人柱にされた。極寒であろうと、容赦なく、囚人は、流れの中へ追い込まれ、頭までつかって、丸太材をかつがされた。凍死者が出た。激流に押し流される者もすくなくなかった。岸辺の囚人たちは、押し流されて行く仲間を、黙って、じっと、見送っただけだった。  霖雨《りんう》のさなかの工事では、崖崩《がけくず》れに遭《お》うて、一挙に数十人が生き埋めになることも、珍しくはなかった。  網走や北見地方の、沼沢《しょうたく》地帯の工事は、さらに悲惨をきわめた。  昼夜兼行の工事だった。真夜中に、一方の平地の端で、狼煙《のろし》をあげる。すると、もう一方の平地の端でも、狼煙をあげる。それを合図にして、双方から、囚人たちが、湿地帯へ踏み込んで行くのだ。氷雨《ひさめ》の降りしきる暗闇の中を、葦《あし》の茂った沼へ、ずぶずぶと入って行く囚人は、その行手が、底無しであることを知らされてはいなかった。しかし、すこし進めば、それは、判った。といって、足鎖をはめられ、モッコを背負った囚人たちは、もう、どうすることもできぬ。進むよりほかにすべはなかった。囚人たちは、死の泥沼にはまり乍ら、誰も、底無しだとは叫びはしなかった。叫んだならば、あとから助けに来る者がいないからだ。  平地の端に立つ看守は、前進が止まると、拳銃をぶっぱなした。囚人たちは、黙々として、底無しの泥沼を進んで行き、そして、大半は、そのまま、還らなかった。  こうして、数知れぬ囚人の犠牲《ぎせい》によって、道路ができ、鉄道が敷かれ、トンネルが掘り抜かれ、駅が設けられ、屯田兵舎が建ち、そして、町がつくられていった。  囚人たちは密林を伐りひらき、山をけずり、川へ橋を架けて、やっと辿《たど》りつけたところに、自分たちが入る監獄をつくった。そこへ、屯田兵や看守たちの家族がやって来、教誨師《きょうかいし》がやって来、病院もできた。屯田兵と看守とその家族の入る病院だ。  商人もやって来た。宿屋もできた。料理屋もできた。遊廓《ゆうかく》もできた。囚人たちとは、なんの関係もなかった。  鉄道敷設は、鉱山開坑の目的だった。その開坑もまた、囚人たちが、やったのだ。坑《あな》の中の数よりも、そこで死亡した囚人の数の方が多かった。  二十数年の間に、いったい、幾万の囚人が、虫けらのように殺されたことだろう。成程、囚人は、犯罪者だ。国がつくった法律にそむいた人間だ。しかし、極寒の流れの中に人柱にされたり、巨樹とともにぶっ倒されたり、底無しの泥沼に生き埋めされたりするほどのむくいを受けなければならぬ極悪《ごくあく》の犯罪人が、どれだけ、いたというのだろう。  同じ人間じゃないか、同じ日本人じゃないか。士農工商の区分のあった江戸の時代でも、武士は、百姓や町人を、虫けらのように虐待をしたことはなかったじゃねえか!」  陣内老人の語気は、しだいに熱を帯び、高くなっていた。  耳を傾けていた自分が、あたりをはばかって見まわすと、老人も、おのれの昂奮に気がついて、苦笑した。  自分は、薪をとって来て、ストーブに抛《ほう》り込むと、老人の語るのを、黙って待った。 「人間は、生命を、大切にしなけりゃならねえ」  老人は、ひくい声音で、再び話し出した。 「わしは、最初の脱獄に失敗した時、搾衣罰《さくいばつ》というのを受けた。素っ裸にされて、濡れた皮と麻でつくられた服をきせられ、その上から、バンドでしばるように強くしばられた。自分の体温で服がぬくもり、しだいに乾いて縮んで来ると、からだがびしびしと締めつけられ、呼吸が苦しくなる。いまにも絶息しそうになる。たいていの者は、悲鳴をあげて、昏倒《こんとう》してしまう。わしもまた、苦しさに堪《た》えがたくなって、舌を噛《か》み切りかけた。その時、わしの耳に、死んだ母親の言葉が、ひびいた。お前のいのちはお前一人のものだ。親のものでも誰のものでもない。自分自身たった一人のものだ。だから、どんなことがあっても、自分の力で大切に守らなければならない。その声が甦《よみがえ》って来た。わしは、『くそ!』と堪えしのび、ついに、生きのびた。  わしは、寒中に、三尺四方の暗黒の室に、寝具も与えられず、一週間もすごす暗室罰《あんしつばつ》にも、一貫目の鉄丸を両足に鎖でむすびつけられ乍らの重労働にも、堪えた。  二度目の脱獄は、偶然のことからだった。その時は、集団で脱走した。いくらか規則もゆるんでいたのだ。手錠なしで労役に従っていた。  網走からノッケウシに向う幹線道路の工事現場に於ける出来事だった。わしらは、伐木作業をやっていた。  わしが、ヤツダモの太い幹を、夢中で鋸挽《のこび》きしていると、突然、後方で、めりめりという大木の裂ける音がひびいた。つづいて、ぎゃっ、という断末魔の絶叫がほとばしった。  その大木が、予定と反対の方角へ、倒れたのだ。  わしは、必死になって、その場から遁れた。気がついた時には、七、八人の仲間とともに、森の奥めがけて、奔《はし》っていた。二、三人の看守が、拳銃を乱射し乍ら、追い駆けて来る。  わしは、逃亡するつもりはなくして、脱走者たちの群に入ってしまったのだ。  やがて、一人が、倒木の下敷きになったふりをして、悲鳴をあげ、追いせまった看守長を、そこへおびき寄せた。  その看守長は、人間の皮をかぶった猛獣だと憎まれている悪名高い男だった。  七人の仲間は、看守長を包囲するや、自分たちの手足の下にねじ伏せて、押しつぶしてしまった。皆は、長いあいだ隠忍《いんにん》して待った好機を、みごとにとらえて、復讐《ふくしゅう》したのだ。  それからの遁走は困難をきわめた。誰も、このあたりの地理に昏《くら》かった。いや、実は、七人は、はじめから、逃亡する計画を持っていたわけではなかった。大木が反対の方角に倒れる不測の騒動をのがさずに、看守長に復讐することだけを、とっさに、打合せて、それに成功したのだ。  あとは、滅茶滅茶《めちゃめちゃ》に、突っ奔るよりほかにすべはなかったが、二里も行かぬうちに、逃亡は不可能だと、思い知らされた。しかし、おめおめとひきかえすわけにはいかなかった。  陽が落ちてから、なお、しばらく、彷徨をつづけてから、やがて、月明りが、木の間からもれて来た時、一人が茅《かや》や熊笹の上へ、倒れた。他の者も、ばたばたと倒れた。誰もひと言も、口をきかなかった。そのうち、一人が、詩を吟じはじめた。はらわたにしみ入るような、朗々たるその声をきき乍ら、樹枝《じゅし》のあわいに、白く冴《さ》えた丸い月を仰いでいるうちに、わしの両眼からは、とめどなく泪があふれた。  一人が吟じおわると、また一人が、吟じ、次々と七人が、それぞれ、思い思いの詩を、月空へ向って、送った。  ……いつの間に、睡ったか、ふと目覚めた時、わしは、はね起きた。  夜はすっかり明けはなたれていた。わし一人だけが、そこに残されていた。  どうして、自分だけを残して、七人は行ってしまったのだろう、と訝《いぶか》っていると、不意に、山麓の方で、銃声が起った。つづけさまに、ひとしきり、それは鳴りひびいた。  三十分ばかり経って、わしが、そこへ降りてみると、七人の仲間は、一人残らず、そこに射殺されて、屍《しかばね》となっていた。……わしは、その時、生命がいかに大切なものか、ということを、肚《はら》の底からさとった」  五  自分が、脱走したのは、それから三日の後であった。暁をえらんで、タコ部屋を忍び出た自分は、しかし、ものの一時間も奔《はし》らぬうちに、二匹の獰猛《どうもう》な獣に襲われた。それは、タコ部屋の棒頭《ぼうがしら》が飼っている土佐犬であった。  タコ部屋へひきずりもどされた自分は、覚悟をきめた無表情で、棒頭たちの動きを、眺めた。  土間に、一枚の板戸がはこび込まれ、板壁へ斜めにたてかけられ、動かぬように釘づけされた。  自分は、全裸にされると、両手を縛《しば》った縄を板壁の柱へくくりつけられ、両足の方は、掛矢で土間に打ち込んだ杭《くい》へ、ゆわえつけられた。自分は、恰度《ちょうど》、乾かすために立板に貼りつけられた熊の皮のような恰好をさせられた。  棒頭の最初の柳の一鞭《ひとむち》が、唸《うな》りをたてて、背中へ来た。激痛が、四肢《しし》をつらぬいた瞬間、かえって、恐怖が去った。一鞭を加えられるまでの恐怖の方が、自分にとっては堪え難かったのだ。  鞭が背中の皮膚を破るたびに、自分は、呻《うめ》いたが、その激痛に堪える気力は、かえって増した。  ——自分の生命は、誰のものでもない。自分自身で守らねばならぬ!  陣内老人にきかせられた、その母親の言葉が、自分に、その気力を与えていた。  鞭が唸るたびに、自分は、心の中で、  ——死ぬものか!  と、叫んだ。  鞭は、執拗《しつよう》に唸りつづけた。  激痛に対して、全身の神経が反応していたのは、ものの五分ぐらいであったろうか。やがて、その唸りだけを耳にきき乍ら、自分の五体の感覚は、麻痺《まひ》して来た。もはや、激痛を感じなくなった。  脳裡《のうり》が、朦朧《もうろう》とけむって来て、頭から下は、おのれのものではなくなった。背中が、金網の跡をつけてふくれあがった餅のようになっているさまを想像し乍ら、しだいに、意識がうすれて来た。  ばさっ、と水があびせられて、意識が甦《よみがえ》ったが、もはや、自分がどういうざまになっているのかさえも、判らなかった。  おそらく、自分は、板戸の上で、屍骸《しがい》のように、だらりとたれ下っているだけであったろう。  再び、鞭が唸りはじめたが、それが自分の肉体に加えられているという感覚はなかった。  闇が、自分を押し包み、なにやら遠い声が、がやがやときこえていた。あの世から呼ぶ亡者の声のようであった。  またもや、冷水が、自分の意識を甦らせた。 「そろそろお陀仏か?」  その声が、耳もとでひびき、首がぐいっと仰向かされた。 「生きてやがる! もう、百ばかり、くらわせるか」  憎々《にくにく》しい声とともに、自分の額は、ごつんと板戸へぶちつけられた。  その時、自分は、別の声をきいた。 「よせ! そいつを、遁したのは、わしだ。……そいつは、もう死んだも同じだ。死肉を、いくら、ぶちのめしたところで、はじまらねえ。やりたければ、このわしをやれ!」  ——陣内老人だ!  自分は、救い手の出現に、全身が何かやわらかいものにくるまれるような安堵《あんど》をおぼえると、そのまま、完全に意識を喪《うしな》った。  三日後の朝、自分は、飯場の裏手の崖ぶちを辿って、白樺《しらかば》の疎林《そりん》の中に入った。  そこに、新しい土饅頭《どまんじゅう》があった。  陣内老人のものであった。  自分は、その前にうずくまると、うなだれた。  陣内老人は、自分の身代りになって、死んでいったのである。  仲間にきかされた老人の最期は、目撃させられた土民たちが、思わず目をそむけたほどむごたらしい光景であった、という。 「やりたければ、わしをやれ!」  そう云って陣内老人は、自ら素ッ裸になってみせた。  その上半身を一瞥《いちべつ》した時、一同は、思わず、息をのんだ。老人は、どんな暑い日でも、素肌を人に見せたことはなかった。それには、理由があったのだ。  その胸、腕、背中、腹、——いたるところに、無数の凄じい傷痕《きずあと》があったのだ。鞭の痕、刀傷《かたなきず》、焼き鏝《ごて》や焼火箸《やけひばし》の跡、火炙《ひあぶ》りの跡、銃痕《じゅうこん》……。流石《さすが》の棒頭たちも、しばらく、言葉もなかった。  別の世界であったならば、その傷痕を見せつけられただけで、その人間の過去に畏怖《いふ》して、ひきさがるところであったろう。  タコ部屋には、掟《おきて》があり、その掟を犯した者を、許す例外はなかった。  陣内老人は、焼火箸で、まず、耳朶《じだ》を刺しつらぬかれ、次に、胸を焼かれ、腹、股、蹠《あしうら》を焼かれた。老人は、しかし、呻き声ひとつあげなかった。  仕置がおわった時、老人は、起き上ると、杖にすがって、外へ向って、歩いた。 「どこへ行く?」  棒頭の一人が、訊ねると、老人は、薄ら笑って、 「自分の墓場を、きめてある。わしの寿命も尽きた」  そう云いのこした、という。 「じゃ、連れて行ってやろう」  棒頭が、手をさしのべようとすると、老人は、ふりはらって、 「ふざけるな。自分の墓場へ、歩いて行くぐらいの気力は、のこしてあるぞ」  と、云いはなった、という。  自分は、土饅頭《どまんじゅう》の前に、うずくまり乍ら、両手で顔を掩《おお》うと、慟哭《どうこく》した。  慟哭しつつも、老人の死をむだにせずに、必ず生きのびて、娑婆へ還って行ってみせると誓っていた。  異変桜田門  一 「今日はひとつ、桜田門外の変に就《つ》いて、異説をとなえるかな」  桜も散って、妙になまあたたかい風が吹く一日、その茅屋《ぼうおく》を訪ねると、等々呂木神仙《とどろきしんせん》は、そう云って、大きなくしゃみをした。珍しく、その前には、一升|瓶《びん》が見られなかった。  つづけさまのくしゃみで、私の顔にも唾《つば》が、はねかかった。 「風邪ですか?」 「昨夜、隣りの餓鬼《がき》どもが、エレキ・ギターというやつを、ひっかき鳴らし居って、いくら呶鳴《どな》りつけても、馬耳東風なので、しかたなく、こっちが夜道を散歩したら、やられた」  寒中も、浴衣一枚ですごして、皮膚をきたえた神仙翁も、やはり、老齢には勝てぬとみえた。 「桜田事変は、べつに、異説をとなえるほどの奇怪な謎は含まれていないようですが……。水戸浪士が、大老|井伊直弼《いいなおすけ》を討ち取った——それだけのことでしょう」 「左様さ、史家が眺めるこの事変には、異説をさしはさむ余地はないかに思われるな。しかし、われわれの前に残されているのは、井伊直弼を襲った水戸浪士側の行動ばかりだ。その日の朝の、直弼の心懐《しんかい》、振舞《ふるま》いに就いては、誰も知ろうとはして居らん。また、死人に口なしで、知るべくもない、ときめてしまっている。そこだな、問題は——」  神仙は、にやにやした。  万延《まんえん》元年三月三日——。  この日は、払暁から、寒風が雪をはこんで来て、五つ(午前八時)の登城太鼓が、江戸城内から鳴りひびく頃には、下界は満目白皚々《まんもくはくがいがい》の景色となった。  太鼓を合図にして、大名小路から、諸侯は、ぞくぞくと、登城しはじめた。上巳《じょうし》の節句だから、総登城だ。  大老井伊直弼の上屋敷の赤門が開かれたのは、五つ半(九時)だ。  井伊家の上屋敷から、江戸城桜田門は、わずか四町の指呼《しこ》の距離だ。  直弼は、大老となってからは、紀伊水戸尾張三家の登城のあと、門から行列をくり出すならわしにしていた。  その供揃《ともぞろ》いは、一本道具を先頭に、従士《じゅうし》以下二十六人、足軽・草履《ぞうり》取り・六尺・馬夫などを加えても、六十人に満たなかった。距離が短いので、頭数をすくなくしていたのだ。いずれも、赤合羽《あかがっぱ》をまとい、大小には柄袋《つかぶくろ》をかぶせていた。  直弼の側役・宇津木左近は、行列が桜田門へ向って、しずしずと進むのを、表玄関さきから見送って、奥へひきかえして来た。  その時、左近は、主君の居室から、線香の匂いが、流れ出て来るのを、かいだ。  平常、直弼は、抹香《まっこう》くさいことを好まず、屋敷のどの部屋にも、香炉《こうろ》を置かせず、衣服に香をたきこめることさえも許さなかった。  左近は、一瞬、不吉な予感をおぼえた。  直弼は表玄関から、乗物に入る時、どうしたわけか、雪風にゆれる松を見やって、 「苦は色|変《か》うる松の風、か」  と、呟《つぶや》いたのである。  直弼の顔色は、悪かった。  この朝の直弼の行動は、いつもと変っていた。  左近が、その居室の前に来て、挨拶《あいさつ》の声をかけた時、直弼は、そこにいなかった。直弼は、庭の南隅にある茶亭にいた。早朝、一人で、点前《てまえ》をする、などということは、絶えてなかった。  主君が、朝食を摂《と》る代りに茶亭にこもっていたこと、表玄関を出がけに上巳の節句の登城にはふさわしくない言葉をもらしたこと、そして、居室に線香をくゆらせていること——すべて、左近にとっては、気がかりなことばかりであった。  左近は、主君の居室に、そっと、入ってみた。  愕然《がくぜん》とした。  几上《きじょう》に、白木の位牌《いはい》が据《す》えられ、その前に、線香が、一条のけむりをたち昇らせていたのである。  その位稗には、 「井伊掃部頭之霊《いいかもんのかみのれい》」  と、記されてあった。  ——なんとしたことだ!  茫然《ぼうぜん》として、左近が、位牌を瞶《みつ》めていると、突如、門前が騒然となった。 「一大事でござる!……お行列に、狼藉者《ろうぜきもの》がっ!」  その絶叫が、ひびいて来た。  左近は、はじかれたように、突っ立ったが、足は、そのまま釘づけになった。  ——殿は、すでにこのことを予知され、お覚悟の上で、出て行かれた!  なんとも名状しがたい、恐怖に似た冷たいものが、左近の全身をおし包んだ。  二  井伊直弼は、文化十二年十月二十九日、彦根城二の丸の槻《けやき》御殿に、十一代藩主|直中《なおなか》の十四男として生れた。勿論《もちろん》、庶子であった。生母は、お富《ふう》といい、彦根御前と称《よ》ばれたほどの美女であった。江戸|隼《はやぶさ》町伊勢屋十兵衛の女《むすめ》であった。かしこい婦人であったが、直弼五歳の春に、病没した。  十四男の庶子である。他家へ養子に行く以外には、一生うだつのあがらぬ身であった。  ところが、運命というやつは、皮肉なもので、思いもかけぬ変転を、直弼にもたらした。  直弼十七歳の時、父直中が逝《い》った。家督はすでに、長兄|直亮《なおあき》が継いでいた。直亮は、直弼をきらって居り、老父が逝くや、直弼を槻《けやき》御殿から逐《お》って、三の丸の尾末《おすえ》町にあった北の御屋敷に移した。御屋敷といえばきこえがいいが、部屋数わずか四間の、中以下の藩士の居宅にも劣る、古ぼけた陋屋《ろうおく》だった。藩からの宛行扶持《あてがいぶち》は、三百俵であった。尤《もっと》も、これは、井伊家の慣例にしたがったまでのことだが……。  爾来《じらい》、直弼は、北の御屋敷を、埋木舎《うもれぎや》と名づけて、逼塞《ひっそく》の生活を送った。  直弼が、直亮の養嗣子《ようしし》となって、江戸へ発ったのは三十二歳の壮年時であったから、十五年の長きにわたる部屋住みであったわけだ。  十四男の庶子とはいえ、藩主の子だから、それ相応の格式を与えられたくらしぶりであったろう、と想像するのは常識だが、どうも、そうではなかったらしい。  埋木舎時代の直弼の歌に、   ささ事も憂きも聞かじや埋木の     うもれて深き思ひこそあれ  という一首がある。  おのが人生が、まるで牢囚《ろうしゅう》のようにつまらないものと思われていたようだ。  但し、直弼は、この十五年間に、文武諸芸に、身をうち込んでいる。  十七歳の直弼の心をとらえたのは、禅《ぜん》であった。  彦根の佐和山の麓《ふもと》に、曹洞宗の大|伽藍《がらん》であった清涼寺がある。藩祖直政の菩提寺《ぼだいじ》として、二代直孝が建立した寺だ。直弼は、この寺の二十二世|師虔《しけん》禅師、二十三世仙英禅師に学んだ。大悟徹底、とまではいかなかったろうが、おかげで、男子の度胸というものを備えた模様だ。  直弼は、禅を学んだために、かえって抹香くさい思念も行事もしりぞけるようになった。亡父の法要にも、一度も、列席せず、野に馬を駆って、兎を捕えて、これを煮て食っていた、という。  幼時から、剣《けん》、槍《やり》、鉄砲《てっぽう》の修練を怠らなかったが、禅を学ぶ頃には、抜刀術に熱中していた。彦根藩の抜刀術は、新心流であった。この流儀は、他流とちがって、もっぱら心の修養を主眼とした。したがって、禅学と通じていた。  直弼の居合は、坐して一閃して、飛ぶ蠅を両断するほどの見事な技であった、という。  新心流の修練に、抜形《ぬきがた》と称する、木枠に藁《わら》の円座を巻き、それを皮で包んだ、恰度《ちょうど》人間が坐しているかたちのものを、据えて、これと対坐する。そして、静心をはかり、心機が至り、腕がしぜんにふるえて来るや、こちらの潮合のきわまったのを感じた抜形が、生きている人間のように、畏《おそ》れて、遁《のが》れ去ろうとする、とみた刹那《せつな》、突如、電光石火の勢いで、抜きつけに、抜形を斬る。  直弼の師は、河西精八郎という達人であったが、直弼が二十歳になった時、精八郎は、 「若は、すでに、それがしを凌駕《りょうが》された」  と云って、再び、教えようとはしなかった。  次に、直弼が精魂をこめたのは、茶道であった。これもまた、禅に通じるものがあったわけだ。  直弼の学んだ茶道は、石州流だが、この頃は、茶道も奢侈《しゃし》に流れて、心よりも技、質よりも姿が重く見られた。直弼は、これを、「世間茶」とさげすんで、排除した。  直弼の歌に、   散りかかる池の木の葉をすくひすて     底の心もいさぎよき哉《かな》  また、   そよと吹くかぜになびきてすなほなる     姿をうつす岸の青柳  などというのがある。  多芸多才であり、しかも、それらの芸に、徹底的にうち込む強さが、直弼の天性だった。  直弼は、さらに、国学の研鑽《けんさん》も怠らなかった。長野主馬(のちの主膳)義言《よしとき》と出会ったことが、この勉学に拍車をかけた。義言は、本居派の国学者として著名だった。直弼が、義言に師事したのは、はじめ歌道と語学だった。それが、学ぶうちに、義言の思想の影響を受けた。  後年、義言は、直弼の謀臣《ぼうしん》となって、安政の大獄に、側近宇津木六之丞とともに、悪鬼的な猛威をふるったが、すでに、二十歳の直弼に、この大獄をなさしめる思想を、徹底的に植えつけた模様だ。  三  弘化《こうか》三年、直弼は、三十二歳の春を、埋木舎《うもれぎや》の陋屋に迎えた。この年、突如として、直弼に、幸運が降って来た。藩主|直亮《なおあき》の世子直元が、江戸藩邸で、病没したのだ。重臣評議を待たずとも、すでに、直弼が傑出《けっしゅつ》していることは、家中全員のみとめるところであった。直弼をきらっていた直亮も、やむなく、この末弟を、養嗣子にせざるを得なかった。  出府して、将軍|家慶《いえよし》に初|目見《めみえ》した時、直弼は、すでにみごとな風格をそなえた丈夫であった。  その年、直亮は、彦根へ還《かえ》り、代って、直弼が、江戸城|溜間詰《たまりのまづめ》となった。溜間詰とは、親藩ならびに、譜代大名で江戸城内の黒書院の溜ノ間に席を持つ者をいう。  この中から、老中がえらばれる。  譜代のうち、彦根、会津、高松の三家は、世襲の家格であり、常溜《じょうだまり》または本席といった。のみならず彦根は、筆頭常溜であった。  窮庶子《きゅうしょし》から一躍、筆頭常溜になった直弼が、どのような心懐を抱いたか、窺知《きち》は許されぬ。凡夫の想像では、得意と不安がないまざったろう。  史家は、この得意と不安が、直弼を異常者にしあげ、途方もない権勢家にした、という説を採《と》っている。つまり、成り上り者の、執拗《しつよう》な反抗的精神が、裏がえしとなって、宮廷を威圧し、公卿を恐喝し、三家、譜代《ふだい》、外様《とざま》、旗本、在野の志士ことごとくを刑罰に処す猛威をふるわせたのだ、と。  わしには、また、別の意見があるが、ここでは、直弼が、威服を恣《ほしいまま》にした大悪党であったか、否か、を論ずるのが、目的ではない。  桜田門外の変について、異説を述べるのが、目的だ。  だから、安政の大獄までの経緯を、かんたんにならべておいて、異説に入ることにしよう。  嘉永《かえい》三年九月。十二代藩主直亮|逝去《せいきょ》。十一月、直弼襲封、掃部頭《かもんのかみ》となる。  嘉永五年四月。長野義言を藩士に登傭《とうよう》、二十人|扶持《ぶち》を与える。肩書は、藩校弘道館の国学教授。  嘉永六年六月。米使ペリー浦賀に来航。直弼、幕閣に、存寄《ぞんじより》書を提出、長野義言、中川漁村の説《せつ》を用いて、開港論を展開する。  安政《あんせい》元年正月。直弼ら溜間《たまりのま》大名、城中に於て、幕閣の外交参与たりし、水戸の徳川|斉昭《なりあき》の攘夷《じょうい》論を大いに反駁《はんばく》する。  安政四年四月。長野主馬義言、主膳と改名して、新知百五十石を受け、直弼の腹心となり、政治舞台に登場。  安政五年四月。直弼、大老となる。六月。日米修好通商条約調印。つづいて、紛糾《ふんきゅう》をきわめた将軍|継嗣《けいし》問題に終止符をうつ。即ち、一橋慶喜をしりぞけて、紀州家慶福を継嗣とする。この二事をもって、水戸斉昭派と、敵対関係になる。  安政六年八月。水戸藩に、攘夷決行の降勅《こうちょく》のことあり。長野主膳は、京都に入って、状況を眺めたのち、攘夷の志士をのこらず逮捕するように、所司代に慫慂《しょうよう》し、実行せしめた。  九月。京都に於ける志士の領袖《りょうしゅう》梅田源二郎(雲浜《うんぴん》)捕縛。これをかわきりに、安政の大獄はじまる。  十月。家茂《いえもち》(慶福)将軍となる。  安政六年六月。神奈川、長崎、箱館、開港。  八月。徳川斉昭に国許永|蟄居《ちっきょ》、慶喜には隠居、謹慎を命ず。つづいて、大獄の第一次断罪はじまる。  安政の大獄で、断罪処罰された志士の名は、今更挙げるまでもないことだが、若い読者の参考までに挙げておこう。 [#ここから2字下げ]  第一次処分(安政六年八月二十七日) 切腹 水戸家老 安島|帯刀《たてわき》(四十八) 死罪 水戸藩士 茅根《ちのね》伊予之介(三十六) 同  同    鵜飼《うがい》吉左衛門(六十二) 獄門 同    鵜飼幸吉(二十三) 遠島 同    鮎沢伊太夫 同  鷹司《たかつかさ》家家来 小村民部権大輔  第二次処分(十月七日) 死罪 曾我権太夫家来 飯泉喜内(五十五) 同  松平越前守家来 橋本左内(二十六) 同  京浪人 頼三樹三郎(三十五) 遠島 大覚院門跡家来 六物空満 同  松平伊豆守家来 太宰八郎 所払い三名・中追放六名・長押込め三名・押込め六名  第三次処分(十月二十七日) 死罪 毛利大膳太夫家来 吉田寅次郎(松陰) 遠島二名・重追放一名・中追放二名・長押込め一名・中押込め一名・押込め八名 [#ここで字下げ終わり]  これだけの大鉈《おおなた》をふるった井伊直弼が、畳の上で、死ねる道理がなかろう。  就中《なかんずく》——。  藩主斉昭を永蟄居にされた水戸藩士が、坐して、時節を待つ忍耐を持つ筈がなかった。  四  万延元年二月二十一日の宵。  一人の旅姿の男が、日本橋|北槇《きたまき》町の、とある新道に入った。  常磐津《ときわず》師匠の看板をかけた小|綺麗《ぎれい》なしもたやの格子戸を開けた男は、奥から「だれ?」と問われたが、黙って、上框《あがりがまち》に腰を下ろして、草鞋《わらじ》をぬいだ。  唐紙をあけて顔をのぞけた若い女あるじは、 「まあ! 貴方!」  と、顔をかがやかした。  イノというこの女は、三年前まで、吉原の花魁《おいらん》であった。  にやっと笑って、上って来たのは、水戸藩士関鉄之介であった。 「ど、どうなすったのです?」  イノは、よろこびと不安で、鼓動をはやめ乍ら、男を見|戍《まも》った。  水戸藩激派の主領高橋多一郎、金子孫二郎とともに、関鉄之介も、謹慎処分を受けている、という噂を、イノは、つい十日ばかり前に、きいたばかりであった。 「脱藩して来た」  鉄之介は、長火鉢の前に胡坐《あぐら》をかくと、そう告げてから、 「二、三日、泊めてくれ」 「それはもう、幾日でも……」  イノは、いそいで、お茶を淹《い》れ乍ら、頷《うなず》いたが、 「でも、ご家中から、ここへ、どなたか、すぐに、参られるのではないでしょうか?」  関とイノの仲は、家中でも、かなり評判だったのだ。 「捕えに来たら、斬るまでだ。しかし、たぶん、来ないだろう。……おい、茶より、酒をくれ」  と所望してから、鉄之介は、イノの両手を把《と》ると、じっと、見据えて、 「惚れている!」  と、云った。 「うれしい! ……いま、死んでもいいくらい」  イノは、身を凭《もた》れかけると、目蓋《まぶた》を閉じた顔を仰向けて、鉄之介の口が、唇へ落ちて来るのを待った。  イノは、伊予浪人の娘だった。父とは早く死別、母が長わずらいで、薬餌代《やくじだい》のために、吉原へ身を沈めた。安政二年、十七歳の時だった。その顔見世の日に、関鉄之介が登楼《とうろう》して来て、忘れられない仲になった。  関鉄之介は、文政七年生れ、十石三人扶持の微祿であったが、少年時代から、文武ともに、群を抜いた俊才だった。北辰一刀流の腕前は、家中随一と称されていた。  小兵だが、美しい肢体を備え、色白の好男子だった。横笛の名手で、おかげで、家中の娘たちから、恋書を送られたことも、一度や二度ではない。  鉄之介は、しかし、花魁のイノしか、女を知らなかった。  三年前、イノが、大伝馬町の薬種問屋に落藉《ひか》されて、この家を持たされてからも、鉄之介は、間夫《まぶ》として、そっと忍んで来た。さいわい、去年のはじめ、イノの旦那は、卒中で逝っていた。  二合の酒が、鉄之介を、一|刻《とき》ばかりねむらせた。  幕府の監視の厳重な網をくぐり抜けて出府して来た疲労が、一時に出た模様であった。  イノは、倦《あ》かずに、男の顔を見入った。  ふっと、目をさました鉄之介は、微笑で、イノの視線を受けると、手をのばした。  イノの白いからだの血が、一時に燃えた。  狂おしいばかりの愛撫《あいぶ》の半刻が過ぎてから、鉄之介は、かたわらにぐったりと仰臥《ぎょうが》するイノに、云った。 「二、三日経ったら、同志が、この家に集まる。接待をたのむ」 「あい」  イノは、鉄之介の手をにぎりしめた。  ——このひとが死ぬ時は、あたしも死のう!  そう自分に云いきかせていた。  三月|朔日《ついたち》——。  水戸を脱藩した大老|天誅《てんちゅう》の義盟を誓った同志たちは、主領金子孫二郎の名をもって、日本橋西河岸山崎屋という待合茶屋に、招集された。  この楼は、平常は、客がすくなく、閑静だった。水戸浪士は、広間を宴席とし、別間を密議の場にした。  この宵は、しかし、参集する者は、ごくわずかであった。  総帥《そうすい》の高橋多一郎は、京都に於て、事を挙げ、長野主膳を討つべく、中仙道を西へ向っていて、金子孫二郎が、井伊直弼襲撃の指揮をとる任に就いていた。  金子は、すくなくとも、四十名は参集するものと考えていたが、十名にも満たぬ顔ぶれに、不安をおぼえた。  しかし、同志の一人が、日をのばしては如何か、と申し出ると、きっぱりとしりぞけた。 「挙行の日はすでに、明後日上巳の嘉節と決定いたして居る。変えることはできぬ」  金子は、そう云って、筆を把ると、次のような箇条をしたためた。  一、武鑑《ぶかん》を携え、諸侯の道具を鑑定する|てい《ヽヽ》をなすべし。  一、四、五人ずつ組合い、互いに応援すべし。  一、はじめに先供に討ちかかり、駕籠《かご》わきの狼狽《ろうばい》する機を見て、元悪を討ちとるべし。  一、元悪は十分討留めたりとも、必ず首級《しるし》を揚ぐべし。  一、負傷した者は自殺、または閣老に至りて自訴す。その余は、みな京都に微行すべし。  その宵、関鉄之介は、来会しなかった。  会の途中、佐藤鉄三郎は、金子の命を受けて、槇《まき》町のイノの家へ、様子を見に行った。  鉄之介は、何処へ出かけたのか、留守にしていた。  鉄三郎が半刻ばかり待っていると、やがて、おもてから、手拍子をとり乍ら、 「吉田通れば、二階から招く」  とうたって、戻って来た鉄之介の声がきこえた。 「まあ、のんきなこと」  イノは、鉄三郎に気がねして、いそいで、迎えに出た。  入って来た鉄之介は、鉄三郎から、なぜ参集しなかったか、と問われて、 「趨《い》こうとして、途中で、尾行者があるのに気がついた。そこで、これをまこうとして、あちらこちら、歩きまわっているうちに、時刻がすぎた。……尾行者め、どうしても、まかれぬので、しかたなく、また、連れて、戻って来た。まだ、外に立って居ろう」  と、こたえた。  鉄三郎が、立って出て行こうとすると、鉄之介は、 「待て」  と、とどめた。 「すてておけ。よもや、われわれが、大老を襲撃することまでは、感づくまい」  五  水戸浪士らは、極秘裡《ごくひり》に、義挙計画を押しすすめたので、絶対に、井伊家には、感づかれなかったと自信を持っていたし、また、首尾よく直弼の、首級を挙げることができたため、事前に露見したとは、夢にも知らなかった。  実は、すでに、この義挙計画は、察知されていたのだ。  三月二日の夜半——丑刻《うしのこく》を過ぎた頃あい。  直弼の寝所に、一人の浪人ていの男が、ひそかに伺候していた。  直弼が掛具をはねて、起き上り、 「寒いの」  と、云うと、男は、「雪がちらついて居りまする」と告げた。  これだけの会話で、主従の間柄が、長い間歳月をかけてつくられたものだということを示した。  男は、両手をつかえると、 「明朝、ご登城の儀、おとりやめ下さいますよう、願い上げます」  と、申し出た。 「なんとした?」 「水戸より脱藩して、出府したる浪士ら、不穏の動きをみせて居りますれば……」 「わしを襲うとでも申すか」 「御意——」  男は、懐中から、巻紙をとり出して、直弼に手渡した。  脱藩浪土の氏名が、列記してあった。 首領 高橋多一郎 同  金子孫二郎    木村権之衛門(十石三人扶持・小十人目付)    野村|彝《い》之介(百七十石・郡奉行《こおりぶぎょう》)    大胡|聿蔵《いつぞう》(十石三人扶持・馬廻組《うままわりぐみ》)    関鉄之介(歩士格・十石三人扶持)    斎藤監物(静神社長官)    大関和七郎(百五十石・大番組)    黒沢忠三郎(百石・馬廻組)    佐野竹之介(二百石・小姓)    広岡|子《ね》之次郎(百石・小普請《こぶしん》)    森五六郎(三百石・次男)    森山繁之介(町方属吏・次男)    山口辰之介(二百石・次男)    広木松之介(町方属吏・三両二人扶持)    蓮田市五郎(寺社方手伝い・三両二人扶持)    杉山弥一郎(留附列・七石二人扶持)    鯉淵《こいぶち》要人(神職)    稲田重蔵(郡方元締・七石二人扶持)    海後|嵯磯《さき》之介(神職)    岡部三十郎(百石・次男)    増子金八(十五石五人扶持・次男)    佐藤鉄三郎(十石三人扶持・三男)    飯村誠助(郡方手代・五両二人扶持)    小田原彦三郎(十五石五人扶持・次男)    清水尚(郷士)  一覧した直弼は、 「いずれも、軽輩だの。百石以上は五人しか居らぬ」  と、云った。  それから、火鉢をひき寄せると、埋めていた炭火を、火箸で起して、その調書を、くべた。  報告者は、眉宇《びう》をひそめて、主人を瞶《みつ》めた。これだけの氏名を列記するために、どれだけの人知れぬ労苦をはらったか——それを、主人は知らぬ筈はないのだ。にも拘らず、焼こうとする。 「左門——」  直弼は、宙へ眼眸《がんぼう》を置いて、云った。 「わしは、斬られてやろう、と思う」 「なんと仰せられます?」 「お前は、わしの埋木舎の頃から、仕えてくれた者だ。わしが、溜間詰になる時、お前は、自らすすんで、世間の表から身をかくして、影|隠密《おんみつ》になってくれた。わしが、どういう考えを持ち、処世の方針をとって来たか——お前は、わし以上にわしを知って居る。……お前は、わしが一度でも私心を動かしたのを見たことがあるか?」 「いまだ、ございませぬ」 「わしは、埋木舎の頃、なぜ大名が窮迫し、百姓が餓《う》えて、商人ばかりが富みさかえるか、考えつづけて来た。そして、それが、きわめて簡単な理《ことわり》であることを、さとった。品物を製《つく》って、これをひろく売りさばいて、利を得る者が勝つ——それだけの理だ。商人のみに、品物をつくらせ、これを売らせて居ったのが、まちがいであった。公儀も大名も、品物を製《つく》り、これをあきなうべきではないか。百姓がつくった米のみを召し上げて、くらすというのが、あやまって居った。げんに、薩摩《さつま》は、砂糖をつくり、密貿易をやって、にわかに富んだではないか。……公儀と大名が、窮乏からまぬがれ、財政をたてなおすためには、開港して、諸外国と交易する方法しかない、とわしは、気づいた。そのために、わしは、政権をとらねばならぬ、と決意した。幸運がめぐって来て、溜間詰になったわしは、その独裁の権をとるために、あさましいまでの策を弄した。わしは、大老となった。わしは、わしに反対する者は、一人のこらず、屏息《へいそく》せしめておいて、国を開こうとした。わしは、水戸を組み伏せた。尾州、越前も、将軍家の名をもって圧した。攘夷を叫ぶあきめくらどもは、ことごとく、捕えて獄へ下した。公卿に対しても、容赦《ようしゃ》はせなんだ。ただ、主上に対する遠慮から、手加減したことが、無駄な騒ぎをひき起し、京都を過激浪士どもの巣窟《そうくつ》にしてしまったが……。長野主膳は、わしの命を受けて、一人、極悪人の奸名を蒙《こうむ》って居るが、すべては、国を開いて富まさんとするための、犠牲であった。やむを得ぬ仕儀であった」 「……」  左門という男は、いつか、顔を伏せていた。身じろぎもせずに、主人の述懐に耳を傾けている。 「わしは、わしのやったことを、あやまったなどと思ったことはない。みじんも悔いては居らぬ。ただ事を為《な》すに、あまりにいそぎすぎたことを、反省はして居る。急に為そうとすれば、無理が生ずる、そのために、犠牲も大きくなった。当然、そのむくいは、このわしが一身に蒙らねばならぬ。……左門、お前は、どう考える? ひとたび、国を開いた日本が、わしが亡くなったならば、ふたたび、国を鎖《と》じると思うか?」 「そのようなことは、ございますまい」 「そうなのだ。もはや、日本を鎖国することはない。わしは、大老となって、わずか二年の短い歳月のうちに、国を開いてみせた。わしの目的は、成されたのだ。……これまでの大老は、床の間の置物であった。わしは、その床の間から降りて、思うさまに、その権勢をふるった。そのために、私曲の権化《ごんげ》のように、蔭口もたたかれたし、惨毒《さんどく》をほしいままにして天下の動乱をひき出した、とののしられて居る。しかし、このさわぎは、一時のものだ。やがて、おさまれば、新しい時世が来る。その時、日本は富んで居る。わしは、確信を持って居る。……わし個人としては、多くの反対者を憤死《ふんし》せしめた責任をとらねばならぬ。大老を辞めた時、自裁するつもりであったが、お前の報《しら》せによって、考えが変った。窮庶子に生れて、三十余歳まで埋木舎に貧乏ぐらしをしていたこの直弼には、ふさわしい死にかたがある、とな」 「殿!」 「ははは……、そうではないか。大老たる身が、十石三人扶持や町方属吏の伜《せがれ》に、殺されるのだ。前代未聞のことだ。公儀の威信は、失墜《しっつい》する。それでよいのだ。大老を陪臣《ばいしん》の軽輩が討つことによって、階級とか身分というものの差の威厳が喪《うしな》われ、上の者は下へ降り、下の者は上へ昇って、やがて、同じ位置にならんで、物を云い、考えるようになる。その時、はじめて、諸外国と、対等につきあえるようになるのだ」 「殿!」 「左門、わしは、斬《き》られる。斬られてやるぞ!」  直弼の決然たる態度の前に、左門は、かえす言葉もなかった。  直弼が、そのまま、牀《とこ》に就かず、左門を去らせて、茶亭にこもった頃、水戸浪士は、愛宕《あたご》山上に集結していた。  薩摩の有村次左衛門を加えて十八名であった。  関鉄之介が総指揮者となり、こまかな手筈をととのえたのち、山を下って、桜田門外へ向った。  その時刻、夜は明けはなたれ、江戸の市街は、白一色になっていた。見附、見附の火の見|櫓《やぐら》が、空にぬき出て、黒く見えるばかりであった。  浪士一同が、そこに到着した時は、雪は、いくらか小降りになっていた。  そこには、葭簀《よしず》がけの茶店が出ていて、茶や燗酒《かんざけ》を売っていた。江戸見物の田舎者あいての出店であった。  浪士らは、入れかわり、立ちかわり、茶店へ寄って、田舎ざむらいの休息のていをよそおった。また、三、四人ずつ、組に分れて、あるいは武鑑をとり出して、登城の大名行列の道具を見くらベたり、あるいは、濠《ほり》の鴨の群を眺めたりしていた。  やがて——。  井伊家の赤門の扉が、八文字に開かれ、しずしずと行列が出て来た。  十八士は、指令通りに、一斉に散って部署についた。  関鉄之介は、桜田門から井伊家の方へ向って、濠端《ほりばた》を進んだ。まだ、合羽《かっぱ》をまとい、下駄をはき、傘《かさ》をさしていた。そのあとを、佐野竹之介ら六士がつづいた。  左方——豊後杵築《ぶんごきつき》藩主松平大隅守邸の高塀沿いに、左翼隊の先手五士が進み、十歩おくれて、三士が進んだ。  行列の先頭が、大隅守邸前の大下水(俗に謂《い》う万年|樋《とい》)のあたりにさしかかった時、辻番わきの路傍にひざまずいていた森五六郎が、笠を傾けたまま、ツツと進んで、訴状のようなものを捧げて、 「さし上げます!」  と、叫んだ。  供頭日下部《ともがしらくさかべ》三郎衛門が、ずかずかと寄って、 「何者か?」  と、叱咤《しった》した。とたん、森は、笠と合羽をはねのけて、抜刀しざま、日下部に斬りつけた。  日下部の方は、羅紗《らしゃ》の柄袋をかけていたので、やむなく、鞘《さや》ごと腰から抜いて、防戦した。が、忽《たちま》ち、額を割りつけられて、雪へのめった。  供目付沢村軍六は、これを目撃して、夢中で、柄袋をはずそうとあせった。森は、そのいとまを与えずに、袈裟《けさ》がけに、斬った。  この時、左翼の襲撃隊は、槍持ちの加田九郎太へ殺到していた。  供廻りの従士は、前衛が崩れたのを見て、一瞬、駕籠《かご》のそばをはなれて、加田九郎太を救援に奔《はし》った。  その、隙《すき》をのがさず、左翼の後隊が、駕籠めがけて、突進した。  その時、一発の銃声がとどろいた。  弾丸は、駕籠の扉をつらぬき、直弼の太股に食い込んだ。  しかし、直弼は、双眼を閉じたなり、ビクとも動かなかった。  右翼隊もまた、銃声を合図に、駕籠へ向って、殺到した。  この折、雪が、にわかに大降りとなった。  降りしきる雪片と、蹴ちらされる雪煙りとで、遠くから目撃する者の目は、黒い影が、白烟糢糊《はくえんもこ》たる中に、まわり燈籠《どうろう》の影絵のように、目まぐるしく動くのを、ようやく見わけたばかりだった。  井伊家側で、奮闘したのは、供目付の川西忠左衛門だった。川西は、二刀流の達人で、襲撃に遭《あ》うや、いったんしりぞいて、すばやく、柄袋をはずし、二刀を掴《つか》むや、駕籠わきに馳せ戻った。  稲田重蔵と有村次左衛門が、両脇から迫って来るや、川西忠左衛門は、まず、稲田を一閃裡《いっせんり》に斬り伏せ、つづいて、襲いかかる広岡|子《ね》之次郎に対して、左手の脇差を振って、薄手を負わせた。  稲田は、重傷に屈せず、いざって、一刀を、駕籠の中へ、突き刺した。  つづいて、海後嵯磯之介も、駕籠を、貫き通した。  直弼は、しかし、呻《うめ》き声もたてなかった。  その間に、川西は、広岡とわたりあい、肩口を割りつけられていた。川西は、崩れ乍ら、広岡の額を斬った。そこを、佐野竹之介が、背中からおがみ撃ちした。つづいて、広岡が、その胸を刺した。川西は、再び起《た》たなかった。  有村次左衛門は、駕籠の扉を、ひきむしるようにして、開けるや、直弼の肩を掴んで、ずるずると、ひきずり出し、その頸根《くびね》めがけて、一太刀あびせた。 「仕止めたぞ!」  有村は、直弼の首をかき落すや、刀の鋒先《ほこさき》へ刺し貫いて、たかだかとさしあげた。  まだその時、闘いはつづいていた。  有村は、首を高くかかげ乍ら、濠端を、奔り出していた。 「取ったぞ! 大老の首を、取ったぞ!」  降りしきる雪の中で、その絶叫が、つづいた。  しかし——。  浪士一同は、知らなかったのだ。  井伊直弼は、すでに、茶亭に於て毒を服《の》み、門を出る時には、絶息していたことを——。  大和天誅組  一 「中国の紅衛兵のモブぶりに、世界中が戦慄《せんりつ》している模様だが、所詮《しょせん》は、毛沢東という天上天下|唯我《ゆいが》独尊の釈迦牟尼《しゃかむに》の掌《てのひら》の上で、踊らされているあわれな操《あやつり》人形の猿猴《えんこう》にすぎんだろう。ところが、わが神州大和国には、十代の少年が、自らの意志で、天下をひっかきまわす騒動を起している。たとえば天誅組《てんちゅうぐみ》だ」  等々呂木神仙《とどろきしんせん》は、ひとしきり、犬たわけとか見入れ駒とか、いかがわしい人獣相姦《にんじゅうそうかん》に就《つ》いての雑学ぶりを披露したのち、どういう連想からか、こう云い出した。 「どうせ、十八歳の狂躁性《きょうそうせい》を持った少年が、起した天誅組騒動だから、後世史家の批判をくらうと、ひとたまりもないところだが……それはそれとして、この天誅組に関する裏話で、あんたの興味を惹《ひ》きそうな男を、一人紹介しておこう。それは、芋太という男だ」 「芋太?」 「うむ、天誅組の面々から、本名を誤聞《ごぶん》されて、そう呼ばれていた小者だ。つまり、人間扱いにされぬ男だったのだ。……芋太は、総裁中山|忠光《ただみつ》と同年の十八歳じゃった」  文久三年八月なかばの夕まぐれ。  残照《ざんしょう》の消えのこる木屋町三条の賀茂川沿いを、頭髪をふりみだした中年の女が、うすよごれた水色の二布《こしまき》を蹴はだけ乍《なが》ら、いそいで歩いて来た。 「五百太《いおた》! 五百太!」  人一人やっと通れるほどの路地へ曲ると、駆け出し乍ら、けたたましく、呼びたてた。  一年中、陽のささぬしもたやが、茶屋と茶屋の塀《へい》の奥にあった。  下が一間、二階が一間の、柱も天井も傾いた家だった。 「五百太——二階にいるか」  母親が、階段を駆けあがってみると、せいぜい十六ぐらいにしか見えぬ若者が、小雀に、餌《え》をふくませようと、夢中になっていた。 「なにをしとるのじゃ。……さ、はよう、支度をするのじゃ!」 「……?」  怪訝《けげん》そうに、仰ぐ若者の、きわめてのんびりした態度に、母親は、苛立《いらだ》ち乍ら、 「お前の出世の秋《とき》が来たのじゃぞ、五百太!」  と、叫んだ。  五百太というこの若者は、一日にいっペんは、必ず「出世」という言葉をきかされていたので、そう呼ばれても、一向に反応を示さなかった。尤《もっと》も、喜怒哀楽の表情に乏しく、自分から積極的に、しゃべったり、行動したりすることのない若者だった。父親はない。  サノというこの母親が、大納言中山|忠能《ただやす》邸の仲居——いわゆる雑仕《ぞうし》をやめて、この家へ一人で移って来てから半年後に産んだ子だ。つまり、雑仕の頃に、何者かに孕《はら》ませられたらしい。  二年あまりは、サノは、五百太を育てることだけにかまけていた。五百太の父親から、相当な手切れの金をもらったに相違ない。五百太が一人で留守居ができるようになってから、サノは、働きはじめた。妙な仕事だった。  御所の局《つぼね》の下級の女官は、三仲間という。御末《おすえ》、女嬬《にょじゅ》、御服所《おふくどころ》——つまり、御末は御膳掛りで、板元で調理した天皇の御膳を受取って運んだり、時には自分で煮焼きする役、女嬬は御道具掛、御服所はその名のごとく、天皇のお召物を裁縫したり、諸方へ出す手紙をしたためる役。  いずれも、切米七石と扶持《ふち》方一月二斗七升の下級女官だが、この三仲間の方が、上級女官よりも、実際は、実入りがよかった。御末も女嬬も御服所も、みな、残りものを頂戴《ちょうだい》できたからである。娘を、三仲間にさし出している家は、食物、炭薪、油、衣類に不自由しない、といわれていた。  サノは、その「お残りもの」を買うのを商《あきな》いにしたのである。これは、相当な利をあげた。  そうやって、サノは、生活を安定させておいて、伜《せがれ》の五百太に、文武の道を学ばせようと、努めた。  しかし、五百太は、生れつき、学問がきらいだった。いろはをおぼえただけで、いつの間にか寺子屋がよいを止めてしまった。それが、露見して、母親から、きちがいのように、打擲《ちょうちゃく》されたが、ついに、文字をおぼえようとはしなかった。 「お前は、出世しなければならぬ身なのじゃぞ。そこいらの町の餓鬼《がき》ばらとは、ちがうのじゃ」  サノは、その言葉を口ぐせにした。しかし、その理由《わけ》は、云わなかった。極端に寡黙《かもく》で、また、そういう出世意欲を燃やす性情の持主でなかった五百太は、その理由を、訊ねたこともなかった。  ただ、毎日くりかえされる母親の言葉を、黙って、きき流していたばかりである。  五百太は、「武」の方は、すこしは、興味を示した。生れつきのチビで、近所の子供たちから蔑《さげす》まれたのが流石《さすが》に神経のにぶい五百太も、面白くなく、町道場へかよって、すこしでも、身丈を伸ばそうとした。但し、|しない《ヽヽヽ》を振る才能は、さっぱりみとめられなかった。  要するに、文武ともに、才能はないようであった。  ま、うかうかと、十八になってしまった、というあんばいであった。  五百太自身が、なまけ者なのではなかった。サノが働かせなかったのである。 「五百太、ようきけ。こんどな、天子様が、毛唐《けとう》を追いはらうために大和へお祈りにお行きなされることになったのじゃ。その錦の御旗をな、中山の若君様がお持ちになることにきめられてな、兵をお集めなされる。お前は、侍従様の家来になるのじゃぞ。わかったか。すぐに、支度じゃ」  サノは、押入れの長持から、かねて用意しておいた着物と袴《はかま》と、大小をとり出した。  五百太は、当惑の面持になった。 「わしが、どうして、中山の若君様の家来にならねばならんのだ?」 「家来になれば、わかるのじゃ。愚図《ぐず》愚図云うことはならぬ、はよう支度をするのじゃ」  サノは、家を出て行く五百太に、泪《なみだ》ひとつ見せなかった。  路地を遠ざかるその後姿に向って、 「出世を忘れるな、五百太!」  と、叫んだことだった。  二  サノはどこで耳にして来たのか、孝明天皇が、この日、攘夷祈願のために大和行幸を渙発《かんぱつ》されたのは、事実だった。神武天皇陵、春日神社に参拝。その際、親征の軍議をひらき、次いで、伊勢神宮に参拝されて、必勝を祈願される。  尊皇攘夷の志士たちが、この報に、秋《とき》こそ来たれり、と欣喜雀躍《きんきじゃくやく》したのは、云うに及ばぬ。  土佐藩吉村寅太郎はじめ、備前《びぜん》の藤本鉄石、参州《さんしゅう》苅谷の松本|奎堂《けいどう》らは、密議を重ねると同時に、軍資金、甲冑《かっちゅう》刀剣及び銃器の調達に奔走した。  渠《かれ》らにとって、頭領にいただくにまさに恰好の人物が居った。中山忠光だった。  忠光は、大納言中山|忠能《ただやす》の第七子。中山一位局の実弟、皇子|祐宮《さちのみや》(後の明治天皇)の叔父に当る。尊皇攘夷の挙兵に、総裁と仰ぐに、これ以上の身分はない。  のみならず、弘化二年生れの、まだ十八歳の貴公子は、資性|※[#にんべん+周]儻不覊《てきとうふき》、尋常一様の殿上人ではなかった。  幼少から木太刀の素振りを最も好み、十二歳の頃には、庭苑の立木を、片はしから、居合斬りして、父忠能を困惑させたものだった。十四歳で、三十すぎた中臈《ちゅうろう》を犯し、父からこのことを咎《とが》められると、 「お父上を、まねたにすぎませぬ」  と応《こた》えて、平然としていた。  忠光は、日常幕府を攻撃して、悲憤やるかたなく、公武合体を否定し、和宮降嫁《かずのみやこうか》の際には、土佐藩の武市《たけち》半平太に向って、 「岩倉|具視《ともみ》、千草有文、富小路《とみのこうじ》敬直の三|奸《かん》、少将ノ局(典侍今城重子)、右衛門|内侍《ないじ》(岩倉の実妹堀川紀子)の二|嬪《ひん》、及び九条|尚忠《ひさただ》、久我建通、中山忠能、正親町《おおぎまち》三条|実愛《さねなる》、幕臣酒井忠義ら五賊に対して、天誅を加え、これを梟首《きょうしゅ》にせんと思うゆえ、越後の浪人本間精一郎を討った勇士らの助太刀を頼みたい」  と、申し入れた。  武市半平太は、忠光が、挙げた天誅梟首の候補者の中に、おのが実父忠能を加えているのに、愕然《がくぜん》となった。  武市は、この暴挙を阻止するために、ひそかに、その父中山忠能に面会して、近衛関白から、忠光を説き伏せてもらうように、頼んだ。  忠光は、近衛関白に謁見するや、説き伏せられる代りに、とうとうと一刻以上も、天誅論を述べたてた、という。  しかし、その時すでに、広橋大納言ら十二公卿の弾劾《だんがい》によって三奸二嬪は、宮中より追放されることに決定していたし、久我、千種、岩倉、富小路四卿は官位|褫奪《ちだつ》、中山、正親町三条、久世の三卿は差控え、二嬪は牢格子の中に押し込める勅命が、翌日下る筈であった。  もし、その罰が下されなかったならば、忠光は、おそらく、京洛《けいらく》の勤王浪士をかき集めて、途方もない騒動を起していたに相違ない。  そういう手のつけられぬ過激きわまる貴公子だったのだ。  この忠光を総裁にすることに決めた天誅組結成の主動者吉村寅太郎は、土佐高知の西十余里高岡郡津野山郷北川村に生れた郷士だった。家は代々庄屋で、寅太郎は、十二歳にして、はやくも、庄屋をつとめている。  十七歳で、須崎の庄屋になったが、郡奉行と衝突し、津野山郷の檮原《とうはら》村の庄屋に移された。ここは、後世、土佐のチベットと称された辺境であったが、寅太郎の才幹によって、幾多の土地改良がなされた。その功によって、高知城下へ召出されて、文武下役を仰付けられた。  同藩士間崎滄浪の門に入り、漢学を学ぶとともに、勤王大義を知って、武市半平太に師事し、その勤王血盟に加わった。  寅太郎は、容子|端整《たんせい》、声音がさわやかな、いかにも魅力のある青年だった。  土佐の郷士は、他藩の郷士とは、ちがっていた。薩摩などでは、郷士といえは、城下外に居住するさむらいのことだ。城下に住む藩士と、身分上の差はない。ところが、土佐では、郷士は、城下ざむらいとは区別された存在だった。初代藩主山内一豊が、遠州《えんしゅう》掛川から移封して来た際、城下は全部譜代でかためてしまい、前城主|長曾我部《ちょうそかべ》氏の遺臣は、ことごとく、郷士にしてしまった。貢租《こうそ》も、百姓と同じように取り立てた。郷士らは、いかに傑出していても、城下に住むことは許されず、藩の役職に就くことはできなかった。  郷士は、城下に入れば、足軽同様の扱いを受けた。  時代が下って、幕府の威光が薄れると、土佐の郷士たちは、この屈辱的な旧秩序に反撥する気概を、みるみる明らかにした。  武市半平太、平井収二郎、坂本竜馬、中岡慎太郎、すべて、郷士出身だ。吉村寅太郎も、例外ではなかった。  寅太郎は、文久二年一月、脱藩し、国事に奔走するうち、脱藩の罪によって捕えられて、母藩に護送され、半年余幽囚の身を送った。  赦免《しゃめん》になるや、翌三年二月、三たび国を出て京師《けいし》に入った。  そして、中山忠光を知った。  八月十四日、洛中《らくちゅう》方広寺道場に、中山忠光を総裁とする天誅組一統が、勢揃《せいぞろ》いした。  吉村寅太郎、奎堂松本謙三郎をはじめ、土佐藩郷士組から池ノ内蔵太、上田宗児、安岡嘉助、那須信吾、伊吹周吉、嶋浪間、土居佐之助、森下儀之助ら十七人。肥前《ひぜん》島原藩から保母健、尾崎濤太郎。常陸《ひたち》下館藩から渋谷伊予作。久留米《くるめ》藩の半田門吉、酒井伝治郎以下七名。因州藩から石川一、磯崎憲。その他、三十八名。  同夜、伏見の船問屋に三十石船三艘を手配させ、天誅組は、淀川を下って、大阪へ向った。  ところで——。  伏見に向って、粛々と堤を進んでいる折だった。 「お待ち下され」  息せききって、馳《は》せつけて来た者があった。 「お願い申します。わたくしを、ご一統の端に、お加え下さいませ」  しんがりを歩く那須信吾に、頭を下げて、たのんだ。  くらがりで、貌《かお》はよく判らなかったが、まだ少年のようであった。 「どこの者だ?」 「この京に住む、名もない浪人の伜《せがれ》でございます。何卒《なにとぞ》、お連れ下さいませ」 「名は?」 「五百太と申します」  那須信吾は、膂力《りょりょく》は十人力と称され、刀槍ともに、群を抜く達者であったが、かなり、そそっかしい方であった。 「芋太か——成程、名なしの浪人の伜らしい。ついて来い」  那須信吾は、許した。  船へ乗り込んだ時、那須信吾から、「芋太」をひき合わされた吉村寅太郎は、その貌《かお》を一瞥《いちべつ》して、眉宇《びう》をひそめた。  ——この小僧、ひどく、侍従《じじゅう》に似ている。  芋太が、吉村寅太郎のうしろに従って、忠光の前に、伺候《しこう》させられたのは、大阪土佐堀常安橋に着船して阪田屋という宿屋に一時休息した時だった。  吉村は、忠光に、 「この小者、いささか、侍従殿に貌かたちが似かようて居りますゆえ、万一の場合、影武者にいたします」  と、告げた。  忠光は、芋太へ、冷たい一瞥をくれたが、べつに、おのれに似た面相に興味もないらしく、 「うむ」  と、頷《うなず》いただけだった。  三  天誅組の顛末《てんまつ》は、いまさら、わしが、くどくどと述べるまでもあるまい。  錦旗の魁《さきがけ》をもって自ら任ずる尊皇攘夷の志士たちが、前侍従中山忠光を総帥《そうすい》として、京師を脱出、行く行く同志に檄《げき》をとばして、大和に押入り、まず五条の代官を討ちとって、義挙の血祭とし、軍政を布《し》いて、聖駕奉迎《せいがほうげい》の準備を急いでいたところ、突如として、京師に政変があって、朝議が一変し、大和行幸は中止と相成った。天誅組は、事志とちがって、茫然《ぼうぜん》自失したが、すでに、挙兵を天下に告げた以上、戈《ほこ》をおさむすべもなく、十津川郷の郷士をかりたてて、高取藩を攻めた。しかし、勝運我に利あらず、苦戦四十日、血汐を南大和に染めて、悽愴《せいそう》な最期を遂げた。  つまり、これだけのことだ。  といってしまえば、いささかそっけなさすぎるから、もうすこし、くわしく述べると——。 「天誅組」は、船で堺へ出て、そこから河内路に入り、南河内|富田林《とんだばやし》在なる半田村に住む水郡《にごり》善之祐(長雄)の屋敷に入った。  水郡長雄は、大庄屋で、尊皇攘夷の志あって、しばしば京師に赴いて、諸国の志士と交遊し、国事を談じた人物で、吉村寅太郎とは、昵懇《じっこん》だった。  中山忠光を迎えた水郡長雄は、附近の同志鳴川清三郎、森本伝兵衛ら十人を率いて、組に加わった。  天誅組は、この地で、馬匹《ばひつ》、鉄砲、弓矢などを、狭山藩や白木陣屋(下館藩石川氏の出張《でばり》陣屋)から徴発した。  それから……。  やってのけたことは、やはり十八歳の若者を首領とする徒党だけに、かなり紅衛兵じみている。  まず、菊の御紋をうった旗一|旒《りゅう》、幟《のぼり》一本をつくっている。尤も、この菊の旌旗《せいき》を先頭にして、陣太鼓をうち鳴らして、中山忠光が、馬上|颯爽《さっそう》として、水郡屋敷を出て行くのを、畠から眺めた一人の百姓の少年が、感激のあまり、その場へ鍬を抛《ほう》り出しておいて、その軍列に加わり、大和まで赴いて、始終軍夫として、必死に働いた、というから、かなり効果はあったろう。  天誅組は、河内路を進み乍ら、勢いをつけるために、抜刀して、一斉に、鯨波《とき》をあげてみたり、詩を高吟《こうぎん》したり、時には、数人が組んで、盆踊りに似た剣舞をやったりし乍ら、やがて、檜尾《ひのお》山観心寺に入り、後村上天皇の陵に参拝し、次いで、楠木正成の首塚に額《ぬかず》き、戦勝の祈願をこめた。  備前の藤本鉄石が、加わったのは、この直後であったな。  流石《さすが》に、藤本鉄石が加わると、紅衛兵的な示威行動はおさまった。藤本鉄石は、その時、四十八歳、人間が円熟していた。  鉄石は、忠光に、挙兵の檄をいたずらに四方にとばすよりも、まず、出師奏聞《すいしそうもん》をするべきであろうと、説いた。  その文章は、松本奎堂が書いた。  しかし——。  その奏聞書が、京の御所へ送られた時、宮廷内では、大和行幸中止の形勢にあった。  藤本鉄石ともあろう人物が、そういう懸念をすこしも抱かなかったとは、|うかつ《ヽヽヽ》もはなはだし。  天誅組は、水郡長雄ら河内勢を加えて意気|軒昂《けんこう》、菊の御紋の旌旗を押したてて、千早峠の羊腸《ようちょう》たる坂径《さかみち》を攀《よ》じた。  その「大和日記」に、 『八つ時、千早を経て、大和河内の境、山々に陣を取り、大和国五条代官所を、はるかに見おろし云々——』  と、記されてある。  せいぜい五六人の徒党で、陣を取り、もないものだが、五百年前、雲霞《うんか》の朝敵を一手にひき受けた楠木正成の悲壮を想起して、どうやら、渠《かれ》らは、相当、頭がイカレていた模様だ。長老藤本鉄石までも、忠光が、五条代官所を見下して、 「天誅じゃ! 血祭りじゃ!」  と、叫んだ時、ただ、頷いてみせただけであったという。  尤も——。  血気ありあまる若き貴公子の闘志を満足させるには、五条代官所は、恰好の生贄《いけにえ》であったろう。五条は、幕府|直轄《ちよっかつ》領で、支配高七万石だが、役人は江戸詰五人、五条詰十人、踏みつぶすには造作はない。  五条代官陣屋襲撃は、まさに、鎧袖一触《がいしゅういっしょく》であった。  陣屋へ殺到した天誅組は、表門と裏手と二手にわかれて、いきなり、ゲーベル銃を十数発ぶっぱなして、わあっと鬨《とき》の声をあげておいて、上田宗児を隊長とする槍組が、裏門から乱入した。  代官鈴木源内は、すでに、それが、河内路から大和へ押し入って来た天誅組である、と知って、死の覚悟をきめると、裃《かみしも》姿になって、表玄関に仁王立っていた。  上田ら槍隊が、庭を奔《はし》って、そこへ押し寄せるや、鈴木源内は、冷ややかに、 「百姓|一揆《いっき》にもひとしいこの狼藉《ろうぜき》は、何事ぞ!」  と、一喝した。 「黙れ! 今般、将軍家は朝敵と相成った。聖上には、大和に行幸あそばされ、関東征伐を仰せ出される筈である。よって、中山大納言次男侍従殿が大将となって、われら天誅組は、近国取締に任ずるものである。貴公が支配の当代官所ならびに郷村を、すみやかに、ひき渡せい!」  上田が、吼《ほ》えたてるのを、鈴木源内は、冷笑した。 「江戸より政権奉還の沙汰は、いまだ来たらず。……血迷うた山賊同然の徒党の口上など、きく耳を持たぬ。退《さが》れっ!」  と、叱咤《しった》した。  上田は、かっとなり「くらえっ」と、槍を突き出した。源内は、胸いたを貫かれ乍らも、柄をつかんで容易に仆《たお》れなかった。  この日、陣屋側で討死したのは、代官をはじめ、手代の長谷川|岱助《たいすけ》、伊東敬吾、黒沢儀助の四人。殆ど抵抗らしい抵抗もせずに、斬《き》られている。  その目的は、血祭の気勢をあげるため、というより、武具財宝の徴発にあったに相違ない。  ところが、陣屋には、元字銀《げんじぎん》十四枚だけしかなかった。天誅組は、憤怒《ふんぬ》して、放火して焼きはらってしまった。  四  五条代官を屠《ほふ》り、その首を、路傍にさらして、地下《じげ》の人々を戦慄《せんりつ》させておいて、以後この地を天朝直轄とする高札をかかげ、あらためて、天誅組の軍制を定めて、意気天を衝《つ》いた頃、宮廷に於ては、朝議が一変していた。大和行幸は延期され、国事参政|寄人《よりゅうど》の廃止、三条以下十九公卿の参朝停止、土佐・因州以下在京諸藩は、藩兵を率いて直ちに帰国などの勅命が下った。  その翌朝、七卿は、長州へ落ちた。  天誅組は、孤立無援となった。  政変の急報は、忠光以下組の幹部の色を失わせた。皇軍と自称した天誅は、一朝にして、兇徒の集団の扱いを受ける立場に逆転させられた。  こうなった上は、実力をもって、一城を奪取し、時節を待たねばならぬという考えに至る。  一統は、五条を退いて天ノ川辻に移陣するとともに、十津川郷の郷士を募り、千人を集めるや、高取城攻撃の計略をねった。  十津川郷は、大和国の南部、吉野郡の西南に位置し、熊野川の上流、大峯山脈の西側の渓谷一帯を指す。峰巒重畳《ほうらんちょうじょう》の地である。大天井ヶ岳、山上ヶ岳を水源地とする天ノ川の水は、南流して十津川となり、さらに下って、熊野川となって、紀州新宮で熊野灘にそそぐ。源流から十津川村七色部落まで、延々三十里に及ぶ。この谷間が、十津川郷だ。  山襞《やまひだ》や小盆地にひらけた部落は、五十をこえている。田畑はすくなく、その|たつき《ヽヽヽ》は、林業と狩猟だ。  保元《ほうげん》の乱の頃から、剽悍無比《ひょうかんむひ》の山岳民として知られた。南北朝の戦乱の時には、南朝に味方して、大功を樹《た》て、護良《もりなが》親王をかくまったし、後村上天皇の黒木御所もここに造営した。爾来《じらい》、十津川郷の住民たちは、天朝を敬愛した。かれらは、すべて、さむらいであった。米がとれなかったせいでもあるが、古来から公租勅免の地として、その由緒を誇っていた。徳川の治世となって、幕府直轄の地となってからも、その特典は変らなかった。  尤も、そのような十津川郷といえども、その生業である林業に於て、苦しい目に遭《あ》っていた。  吉野杉は、十津川を運送路として、新宮に運び出されるが、そこに、紀州藩の二分口役所があって、百分の二の課税がとりたてられていた。ところが、紀州藩から新宮藩水野家に、移管されてからは、一挙に、三割の高率税を課せられるようになっていた。これでは、とうてい、十津川郷の林業は、なりたたない。郷士らは、新宮藩を憎み、その高率税を許可した幕府を憎んだ。  十津川郷士が大挙して、天誅組に参加したのは、こうした理由があった。  一千余にふくれあがった天誅組は、まっしぐらに高取城下へ向って、進撃した。  江戸から、軍師として安積《あさか》五郎も到着していた。  この天誅組を迎え撃つ高取側は、士分百三十人、小頭、足軽、力者百数十人——まことに兵力は乏しく、大砲も四門しかなかった。  火ぶたがきられたのは、文久三年八月二十六日払暁。  なんとも皮肉なことに、撃たれ、射られ、突かれて、総崩れになって散乱、潰走《かいそう》したのは、天誅組の方であった。アメリカの大部隊が、ハノイを奪取しようとして、べトコンの死にもの狂いの反撃をくらって、後退を余儀なくされた、というあんばいであったな。  高取城は、天険に拠《よ》った要害である。城下町から山城まで五十町、城下札の辻にある釘抜門を境にして、武家屋敷と商家を区分し、いざ鎌倉の場合、すべての家屋を焼きはらって、籠城《ろうじょう》する用意があった。釘抜門を入って右方に藩主館、そこから十余町で山麓に達す。黒門をくぐると、道は険しくなる。謡曲「日村」のいわゆる「小津の小川」に沿って、登る。七曲り、七本杉、一升坂など、冬でも汗する。一升坂は、そのむかし築城の際、石材運びの人夫どもに、「日当一升増すぞ」とはげましたところ。このあたりから、防禦用の竹林が密生する。  二ノ門前に濠《ほり》をめぐらし、そこから三ノ門までは、さらに道は険しくなる。本丸天守閣に立てば、大和の平野は、一望のもとに収められる。とうてい、短時日をもって、攻め落せるものではない。  高取藩兵は、城下町の釘抜門から十町あまり下った藩の調練場鳥ヶ峰に布陣して、天誅組を待ちかまえたのだ。ここに立てば、越智岡《おちおか》村|字《あざ》森の部落は、すぐ眼下にひろがり、戸毛及び御所から通って来る一筋の往還は、掌中にある観だ。  高取藩は、この鳥ヶ峰に、虎の子の大砲四門を据えた。そして、あちらの杜《もり》、こちらの丘に、銃隊、槍隊を伏せて、待ちかまえた。  そこヘ——たった一筋の往還を、ぞろぞろと、攻めて来た天誅組は無策無謀というよりほかはない。おまけに、ひきずって来た手製の大砲が、生木のために、火縄を切っても一向に発火しなかったのだから、なさけない。さらに、その先祖は剽悍無比《ひょうかんむひ》をうたわれた十津川郷士も、いまはただの木樵《きこり》であって、隊を組んで闘うすべを知らなかった。  闘う前から、勝目はなかったのだ。  白兵戦にでもなっていたならば、あるいは、旗色は寄手の方に明らかになったかも知れぬが、その前に、四門の大砲を撃ちかけられて、天誅組は、あっけなく潰走してしまった。  高取側には、戦死は一人もなく、負傷二人だけ。それにひきかえて、寄手は、七人以上が討死、五十余の捕虜をのこした。吉村寅太郎自身も、味方の撃った銃丸で、脇腹を貫かれたから、なさけない。  敗走軍は、天ノ川辻へひきあげ、陣容をたてなおすことにした。  そこヘ——。  追討の軍勢が押し寄せて来た。和歌山、津、彦根、郡山らの諸藩の兵合せて——どれくらいいたか、ざっと二万というところであったろう。  五  天誅組の面目は、追討の諸藩の軍勢を迎えてから、発揮された。  彼処此処《かしこここ》で闘っては敗れ、敗れては闘い、しだいに追いつめられ、ある者は討死し、ある者は傷つき、ある者は離反し、しだいにちりぢりばらばらになりつつ、山嶽を遁《のが》れ遁れて行ったところに、天誅組が後世に名をのこした悲壮がある。  しかし、その経緯を、くどくどと述べるのが、ここでは目的ではない。かんたんに述べておこう。  大日《おび》川東北約一里半の白銀嶽の攻防ののち、河内勢の首領水郡善之祐が、忠光の行動に不満を抱いて、脱退し、さらに、天ノ川辻の本陣をすてて敗退した時、十津川郷士もまた離反し去り、十津川郷をすてて北山郷へ遁れ入った頃には、百余の残党と化し、松本奎堂は砲弾の破片を蒙って盲目となり、吉村寅太郎は破傷風に罹《かか》って、流血が止まらず、歩行不可能となった。  北山郷を抜けて、鷲家口へ出るや、そこには、井伊家の軍勢が固めて居り、天誅組は、決死隊を組織して、敵本陣へ斬り込んだ。そうして、敵を牽制《けんせい》しておいて、主将忠光はじめ、傷病人の吉村寅太郎、松本奎堂らを、重囲から脱出させようと計ったのだ。  那須信吾、山下佐吉、植村定七、宍戸弥四郎、鍋島米之助、林豹吉郎ら決死隊の面々は、夜九つ、闇を衝いて、井伊家先鋒陣所へ斬り込み、一人のこらず、討死した。  このあたりが、天誅組物語の白眉《はくび》というところだろう。  松本奎堂は鷲家峠で、人夫に駕籠から叢《くさむら》へ抛り出されて自殺し、藤本鉄石は、鷲家東方の伊勢街道で、紀州藩士と斬りあって、乱刃《らんじん》に斃れた。吉村寅太郎もまた、鷲家口の東南小村|三畝《みりゅうと》という山の神祠の中に、身を横たえていたが、やがて杖にすがって、そこから五、六町はなれた鷲家口ヘ姿を現して、その一円を固めた藤堂藩兵の一人に発見されて、撃ち殺された。  ついに——。  中山忠光は、上田宗児、伊吹周吉、嶋浪間、半田門吉、同家来山口松蔵、安積五郎の家来万吉わずか六名を従えただけで、敵陣を突破した。  いや、もう一人、この一行に加わっていた者があった。影武者芋太だ。  のみならず、天ノ川辻本営を放棄した時から、影武者は、中山忠光自身にさせられていた。これは、吉村寅太郎の意見によるものだ。  芋太は、そのいでたちになると、一同が目を疑うほど、忠光に酷似《こくじ》していた。忠光自身、その時はじめて、この小者の貌《かお》を、注意してじろじろと眺めたことだった。 「お前の父親は、何者だ!」  忠光は、問うてみた。 「浪人者にございます」 「どこの国だ?」 「よく、存じませぬ。京に、住んで居りました」  芋太は、それ以上の返答をもとめられると、嘘がつけなくなるおそれで、俯向《うつむ》いた。  さいわい、忠光は、それ以上は問わなかった。  芋太が、敵に忠光と看てとられて、襲いかかられたのは、鷲家の重囲を突破した時だった。  那須信吾から、 「お前は、侍従殿になりすまして、討死しろ。天下の為だぞ」  と、云いのこされていた芋太は、鷲家口を突破して、鷲家近くの竹藪わきを、忍び抜けようとしている折、突如、 「おっ! 中山侍従だぞ!」  という叫びをきいた刹那、本当に死ぬ気になった。  運があったのだろう、槍を突きつけて来た紀州兵二人を対手《あいて》に、滅茶滅茶《めちゃめちゃ》にあばれまわっているうちに、いつの間にか二人とも、悲鳴をあげて、地べたへ蹲《うずくま》っていた。  盲滅法《めくらめっぽう》に、闇を奔《はし》って、方角も判らずに山の中へ逃げ込んで、よじのぼって行くうちに、また、忠光一行にめぐり会ったのも、運命というものだった。  忠光が主将の姿にかえり、芋太がもとの小者にもどったのは、紀州藩兵の厳しい吟味《ぎんみ》の目をくらまして、大阪長州藩邸に遁《に》げ込んでからであった。  当然、芋太は、影武者の役を免じられたわけであったが、忠光としては、潜行逃亡中に、影武者の必要をさとったとみえて、船で防州三田尻に向う際、芋太一人だけを供にした。  芋太の脳裡《のうり》には、侍従の家来として自分一人だけが残されてみると、 「なにがなんでも、出世をするのじゃ」  と云いつづけた母親サノの顔が思い浮んだに相違ない。  ——おふくろは、侍従様に、わしが似ているのを、知っとったのだ。  六  中山忠光は、いったん、長府の毛利左京之亮の居城に入ったが、幕府方隠密の目がきびしいのを理由に、下関の勤王家白石邸に、身柄を移された。  しかし、この家もまた安全ではなかったので、志士たちの肝煎《きもい》りで、長府の西北|延行《のぶゆき》の里に、仮住居が建てられた。門司田ノ浦に屏居《へいきょ》していた剣客国司直記が附人にされ、さらに、忠光の激烈な気象をすこしでもしずめるための配慮から、下関の宿屋の娘登美が、側妾としてはべらされた。  忠光は、延行《のぶゆき》に在ること九ヵ月、そこもまた隠密の詮議《せんぎ》の目が迫って来たので、漁船で宇賀の湯玉に行き、次いで、上畑の常光庵に隠棲した。  戸数十数戸の山里であった。  血気の忠光が、こうした山間で、釣糸を渓水に垂れるだけの日々に堪《た》えている筈がなかった。  無聊《ぶりょう》に苦しんだ忠光は、三度ばかり、百姓家の裸馬を盗み出して、上畑脱出を企てたが、附人の国司直記に捕えられて果さなかった。  国司直記は、ついに、忠光の狂気じみた言辞挙動にあきれて、附人たることを辞す決心をし、附人がいなくても安全な場所を物色して、田耕村をえらんだ。田耕村は、擂鉢《すりばち》の底のようなところだった。  御嶽、城山、白滝の山が、屏風《びょうぶ》のように、村をとりまいていた。  忠光は、国司直記に、白滝の四恩寺に案内され、牢屋構えのような部屋に入れられると、 「ここが、わしの終《つい》の栖《すみか》か」  と、吐き出した。  国司直記は、去りがけに、芋太を呼び、 「もし曲者《くせもの》が襲って参ったならば、お前が身代りになって、死ぬのだぞ」  と、云いふくめた。  翌日の宵、忠光は、芋太に、 「身装《みなり》を換えるぞ」  と、命じた。  忠光は、とうてい、こんな山奥に身を跼《かが》めていることに我慢ならなかったのだ。  芋太は、黙々として、忠光と、衣類を交換した。 「部屋で、読書をしている|てい《ヽヽ》にみせい」  忠光は、そう云いのこしておいて、月明りの中を、村を脱出して行った。  残された芋太は、牢屋構えの部屋で、机に向ったものの、勿論、むつかしい書物に目を通す気もなく、いつの間にか、俯伏《うつぶ》して、ねむった。  そこへ、そっと忍んで来たのは、延行からたずねて来た側妾の登美だった。 「侍従様!」  恋しさ、なつかしさのあまり、登美は、うたたねしている芋太に、夢中で、しがみついた。その顔をよく視《み》る余裕もなかった。また、部屋も、燈心一本では、ひどく暗かった。  しがみつかれて、目をさました芋太は、若い女の匂いに、生れてはじめて、欲情をかきたてられた。  たぶん、芋太の脳裡を、影武者にも、こういう余得がひとつぐらいあってもいい、という考えが、チラと掠《かす》めたろう。  芋太は渾身《こんしん》の力をこめて、登美を抱きしめると、畳の上へ倒れた。  その時だった。 「芋め! 何事だ!」  凄《すさま》じい呶声《どせい》が、戸口からあびせられた。  忠光が、戻って来ていたのだ。  峠の頂上で、国司直記に、はばまれたのである。  国司直記は、あるいはこういうこともあろうかと懸念して、二、三日、峠の木樵《きこり》小屋にとどまっていたのだ。  すごすごと四恩寺に戻って来てみれば、この光景だ。 「痴《し》れ者め!」  忠光は、かっと逆上すると、登実の上からはねあがった芋太めがけて、白刃をなぐりつけた。  辛うじて、刃風の下をすり抜けた芋太は、床の間の手槍を、ひっ掴《つか》んだ。  あとは、どうなったか、よくおぼえていない。  われにかえった時には、忠光が、足もとで、血まみれになって、事切れていた。  芋太は、その場へ、へたへたと坐り込んでしまった。  国司直記が、姿を現したのは、それから半刻ばかり過ぎてからであった。  貌がよく似た十九歳の若者二人は、こうして、同じ夜に、死んだ。これが、天誅組の結末だ。  登美は、その時すでに身ごもっていて、長府の藩士の宅にひきとられて、やがて、女児を分娩《ぶんべん》した。この女児は、後に、嵯峨侯爵《さがこうしゃく》夫人になった。  日本人苦学生  一 「天誅組《てんちゅうぐみ》が、河内《かわち》に入った時、これを、おのが屋敷に迎えて、義挙に参加した水郡《にごり》善之祐のことは、先月、ちょっとふれたな」  等々呂木神仙《とどろきしんせん》は、無作法にも、私の前で、手枕で横になり乍《なが》ら、云った。 「水郡善之祐は、本姓は紀、名を長雄といい、善之祐はその通称で、のち隼人《はやと》と改めた。累代《るいだい》、大庄屋だった。嘉永《かえい》六年に、父のあとを継いで、大庄屋になったが、時あたかも米艦来航しきりだったので、善之祐は、尊王攘夷《そんのうじょうい》の志に、燃えた。どういうものか、尊王攘夷党には、富有の郷士という奴が多い。貧乏藩士などとちがって、窮乏を知らぬし、平常のくらしが自由だったので、エネルギーをもてあましていたのだな。さむらいと百姓のまん中にいる郷士が、最も、思想も行動も束縛されぬ立場にいたといえる。水郡善之祐は、その典型的な人物だった。銭《ぜに》に不自由していないから、志を同じゅうする各藩士を、自邸へ招き、自身もまた、しばしば、京師《けいし》へのぼって、志士連と交遊した。吉村寅太郎と知り合ったのも、京師に於てだ。大いに意気投合したらしく、『いまよりは互ひになれてますら夫のいづれたけくと磨かざらめや』という一首をものして、寅太郎に示している。天誅組が、河内路に入って来るや、水郡善之祐が、双手を挙げて、歓迎したのは、当然だった。一も二もなく、天誅組に加わって、天下に、おのが功名をひろめる野望に、勇躍した。……今日は、ひとつ、その水郡善之祐の息子英太郎に就《つ》いて、語ろうと思うのだ」  神仙は、むっくり起き上ると、 「あんたの立川文庫は、全部|出鱈目《でたらめ》、作りもの、という不名誉な風評がある。しかし、今日わしが喋《しゃべ》る水郡英太郎伝は、みじんの虚構も、ありはせん。正真正銘の実伝だな。こういう伝記も、ひとつぐらい加えておけば、柴錬も、よく調べた、といささか名誉|挽回《ばんかい》できるかも知れん」 「私は、史実の常識をひっくりかえすことが、むしろ、快感《かいかん》なのですがね。非難をあびるのを、不名誉だなどとは、全く考えていませんよ」 「まアよろしい。ききなさい」  水郡家は、南河内|富田林《とんだばやし》の西南、川西村甲田に、在った。  その地一帯は、丘陵をなして居り、東南近く金剛山を一眸《いちぼう》におさめ、大楠公《だいなんこう》の古塞址《こさいし》が点々としてちらばっているところだ。そこの大庄屋ともなれば、勤王の志が厚くなるのもむりはない。  善之祐の長男英太郎は、この年、わずか十三歳。父の言辞行動を批判する力はない。ただひたすらに、父を規範として、尊王攘夷の何たるかを知らぬままに、父に従って働こうと、一途な心情を持った。  伴林《ばんばやし》光平の『南山踏雲録《なんざんとううんろく》』に、次のように記されている。 「水郡英太郎は、容貌艶麗《ようぼうえんれい》にして、言語|爽清《そうせい》、常に長槍をひねり、父の首途《かどで》の日、しいて後に従い、以て父の死期を見んと乞う。語気確実、心志不変、依ってこれを許す。始終父に従い、嶮岨《けんそ》を奔走し、軍中に起臥して困苦の色無し」  天誅組が、大和路を転戦する間、この可憐な美少年は、志士たちから、大いに可愛がられた。  さて——。  天誅組が、各藩の軍勢に、怒濤《どとう》のごとく迫られて、各地に転戦した挙句《あげく》、大日《おび》川東北の白銀嶽の攻防で惨敗《ざんぱい》した時、水郡善之祐は、中山忠光が、退却ばかり考えていることに不満を抱いて、ついに、脱退した。  善之祐は、袋の鼠《ねずみ》、釜中《ふちゅう》の魚になった以上、やむを得ぬから、死にもの狂いに突撃を敢行して、血路をひらき、重囲を脱して、新しい地をもとめて、かくれひそみ、時機をうかがって、再挙をはかるべきだ、と主張したのだ。ところが、忠光が、その決死行を容《い》れずに、大日川の本陣を払って、天ノ川辻に退いたので、善之祐は、 「坐して餓死《がし》を待つにひとしいまねはできぬ!」  と、憤って、袂《たもと》をわかつことにしたのだ。  善之祐は、河内勢の残党——長男英太郎、吉田重蔵、石川一ら十三名をひきつれて、去った。  河内勢は、銀峯山から大日川、天ノ川辻、坂本、辻堂、長殿、風屋などを経て十津川郷上湯川へ遁《のが》れて、そこの郷士田中主馬造を、たよった。  ところが、すでに、京都の政変によって、天誅組が逆賊の立場に置かれたので、十津川郷士は、天誅組を離反していた。田中主馬造は、たよって来た河内勢に、当惑した。殊に、主馬造の弟勇之進は、天誅組から全くそむいていたので、一行をあざむいて、紀伊藩へ、ひき渡そうと計った。  勇之進は、水郡善之祐に向って、こう告げた。 「貴公らをなぐさめようと思い、百姓を動員して、今朝から、猪《いのしし》を猟《と》るべく、山に入らしめて居り申す。もう今頃は、猟っているかと存ずる。しかし、当地の習俗で、村内で、獣肉をくらうのを忌《い》み申す。当村から二里ばかり西南に下湯川村がござる。そこは、紀州と境を接するところゆえ、砲台もそなえつけてあり、身の安全が保たれるかと存ずるゆえ、その陣小屋へ往《ゆ》かれて、猪をくらわれては如何であろうか」  河内勢は、その厚意を感謝して、下湯川の陣小屋へ、おもむいた。  囲炉裏《いろり》をかこんで、山猪を大釜で煮て、大いにくらって、寝に就いて程なく、突如として、陣小屋めがけて、銃砲撃して来た。  この夜襲で、河内勢の殆どが、手負い、二人が行方不明になった。十三歳の英太郎も、歩行困難なくらいの重傷を負うた。  水郡善之祐が、夜襲しかけて来たのは、紀伊藩兵ではなく、田中勇之進を指揮者とする十津川郷士勢であった、とさとったのは、夜明けてからだった。  同志と信じていた十津川人に裏切られて、水郡善之祐も、ついに、闘志が、くじけた。  紀州路に入り、日高郡小又川村に至って、そこに紀伊藩出張所がある、ときいた善之祐は、単身で、営所におもむいて、自首した。  隊長は、吉本伍助という男であったが、善之祐の従容《しょうよう》たる態度に感服して、兵らに鄭重《ていちょう》にとりあつかうように命じた。  善之祐以下河内勢八名は、同村百姓喜助の米倉に、収容された。  すでに、死を覚悟した善之祐は、柱に、おのが血汐で、   皇国の為にぞつくすまごころは     知る人ぞ知る神や知るらん  と、辞世をしるした。  それから、長男英太郎に向って、 「武家|法度《はっと》では、十五歳に満たぬ者は罰せず、とある。お前は、家へ帰るのを許されるであろうゆえ、文武の道をはげんで、父の志を継いでもらおう」  と、さとした。  すると、英太郎は、 「わたくしのきくところでは、たとえ十五歳未満でも、牢獄に投じて、十五歳になるのを待って、死刑に処す、とか……。わたくしも、死ぬ覚悟にございます」  と、こたえた。  二  河内勢残党は、山輿《やまかご》で和歌山に送られ、倉ヶ谷の牢獄に入れられたが、三月後の十月はじめ、京都町奉行所へ移されることになった。  その際、英太郎だけは、十三歳の小童《しょうどう》である理由によって、帰宅を許された。  翌年——元治元年、夏になって、蛤御門《はまぐりごもん》の変が起るや、幕府は、そのどさくさに乗じて、繋獄《けいごく》中の尊王攘夷の志士たちを、のこらず斬ることに決めた。水郡善之祐以下天誅組河内勢の残党も、その残忍からまぬがれることはできなかった。  一説によると——。  火急の際ゆえ、一人一人を処刑するのは、面倒とばかり、獄吏は、牢格子外から、長槍を突き入れて、滅多突きにして、みな殺しにした、という。  ところで、英太郎が、富田林の水郡家に戻って来た時、屋敷には、継母と異母弟竜次郎、多門三郎の三人が、待っていた。  継母ムネは、あまり心掛けのいい女ではなかった。  善之祐が、獄中に斬られる三月ばかり前に、異母弟二人が、疱瘡《ほうそう》に罹《かか》って、死んだ。  当然、死ぬべき運命にある英太郎が生還して来て、まるでその身代りになったように、異母弟二人が、バタバタと死んでしまったのだ。継母が逆上したのも無理はない。  爾来《じらい》、ムネと英太郎の仲は、氷のように冷たくなった。  英太郎は、父が獄中に斬られた、という報に接するや、悲憤に堪えず、京都町奉行に対して復讐のほぞをかためた。  そこで、必死になって、剣術の修業をはじめた。  英太郎は、まだ、村に保管を命じられた罪人の身であった。剣術の修業など、許されてはいなかった。  ムネは、英太郎を憎んでいたので、このことを、ひそかに、神戸藩長野代官所へ訴えた。  英太郎は代官所へ呼び出され、文武修業を止めて、農業にはげむように、厳重に申し渡された。  ——母者のしわざだ! くそ、斬ってくれようか!  英太郎には、継母が、羅生門の鬼のように思われた。  英太郎が、元服したならば家をすてる決意をしたのは、その時だった。  慶応三年——十六歳になった春、その機会が来た。  鷲尾侍従《わしおじじゅう》が、田中|光顕《みつあき》、香川敬三らの志士を参謀として、勤王の兵を率《ひき》いて、高野山にたてこもった、という報がとどいた。香川敬三は、亡父善之祐の知己であった。  ——秋《とき》こそ来た!  英太郎は、同郷の若者ら十余人を説き、葛見《くずみ》竜五郎という郷士を隊長として、高野山へ趨《はし》った。  侍従に謁見《えっけん》した河内若者勢は、遊撃軍と命名された。  侍従に従って、大阪に入り、京都に着くや、御親兵に編入せられ、二条城に駐屯《ちゅうとん》した。  軍務官裁判所|追捕使《ついぶし》、というのが、河内遊撃隊士らに与えられた身分であった。  仁和寺兵部卿宮《にんなじひょうぶきょうのみや》(東伏見宮)が、北越征討総督に任ぜられるや、英太郎は、乞うて、総督官|嚮導《きょうどう》兼斥候になった。  敦賀《つるが》から越後今町(直江津)へ、新潟から庄内の国境ヘ——転戦の間、英太郎は、つねに、先頭を進んで、弾雨をくぐった。  三  明治二年春、水郡《にごり》英太郎は、軍務官陸軍将附属という身分になった。  たまたま、天皇が、都を東京に移される、という沙汰に接した英太郎は、同志四十名とかたらって、御東行停止の運動を起した。  その理由は、  一、東京は海岸に接する地で、皇居を移し給うに不利であること。  一、一朝外国と戦端をひらけば、海運が途絶し、軍糧欠乏、百万市民ともども飢え果てること。  一、奠都《てんと》後は、京都数十万市民が忽ち常職を失うこと。  という次第であった。  この嘆願は、権判官西村亮吉によって、笑いとばされた。 「百聞は一見にしかず。江戸へ行ってみい、江戸ヘ——田舎者どもが!」  この西村亮吉は、英太郎の才能と勇気を買っていた。  錦旗《きんき》にしたがって、東京へ出た英太郎は、東海道を下る間に、その考えを、大きく転換させていた。  恰度《ちょうど》、幕府の残党榎本釜次郎が、函館《はこだて》に拠《よ》って、官軍に反抗していたので、英太郎の同僚たちは、進んで、追討軍に加わった。  しかし、英太郎は、それを拒否した。  追討軍の軍監宮川助五郎は、英太郎を呼んで、 「功を樹《た》てて、亡父の遺志を遂ぐのが、お前の志ではないか?」  と、問うた。  英太郎は、かぶりを振った。 「敗戦の残兵を討って、功名を挙げるのは、わたくしの願うところではありません。幼少の時代を、勉学をおろそかにいたしましたゆえ、東京へ出たのを機会に、和漢の学、ならびに洋学を修めようと存じます」  宮川も、この言葉に、納得した。  英太郎は、昌平《しょうへい》学校に入った。西村亮吉の斡旋《あっせん》で、賭料《まかないりょう》一日白米五合、金一朱、俸給一月三両を給与されることになり、安んじて、勉学に没頭することができた。  ところが——。  昌平学校に入ってみて、英太郎は、甚《はなは》だしい失望をあじわった。  学生たちは、旧幕時代の旗本子弟と比べて、品質も学力もひどく劣っていた。多くは、薩摩、長州、土佐の藩士だったが、もともと、学問がきらいで、刀をふりまわし、軍事を談論するのが好きな手輩ばかりであった。  和漢洋の書物などをひらくよりは、青楼《せいろう》にのぼって、酒をくらい、抜刀して剣舞《けんぶ》をやる方が性に合っていた。吉原や深川あたりに流連《いつづけ》して、学校へは一向に顔を出さぬ者が、半数以上いた。  当時、学資は三両もあれば足りた。書籍は官から貸し与えられたからである。しかし、多くの学生は、遊興のために、官俸賞典禄を費《つか》いはたし、刀も衣類も質屋へはこぶありさまだった。  まじめに勉強する学生が、軽蔑され、罵倒《ばとう》された。  英太郎は、はじめは、うんざりした。そして、いつの間にやら、朱に交ってしだいに赤くなった。  英太郎は、まだ十九歳だった。  英太郎が、昌平学校で得たものは、ふたつだけあった。  薩長出の藩士らが、旧幕臣にくらべて、粗野な田夫野人《でんぷやじん》でしかないこと。もうひとつは、一途に信奉していた攘夷《じょうい》思想が、全く幼稚きわまる莫迦《ばか》げたものであったこと。  前者の方は、すでに、追討軍に加わっていた頃から気がついていたことだったが、後者の方は、洋学を教えられはじめてから、愕然《がくぜん》となるほど目覚めさせられた。  明治三年十月、英太郎は、東京府から、少属《しょうぞく》に任ぜられ、府兵局詰を命じられた。一年玄米三十三石の給祿だった。府兵局というのは、いまの警視庁の前身だ。  少属以下の俗吏の大半は、旧幕時代の与力同心であった。罪人逮捕、取調べには、特殊の技術を有《も》っていたが、新時代の法律には全く暗かった。英太郎が、これら同輩と、うまくゆくわけがなかった。  与力同心あがりの少属たちは、四十歳以上が多く、十九歳の英太郎を、青二才とあなどった。英太郎の異数の抜擢《ばってき》を憎む気持もあったのだろう。  英太郎は、くそおもしろくないので、新橋あたりの花柳街へ、足をふみ入れるようになった。  上司の一人が、身をもち崩しはじめた英太郎を、惜しんで、むりやりに、女房を押しつけた。芝区栄町の柳川梅吉という者の次女ミチであった。  ミチは、よくできた娘だったので、英太郎は、辛うじて、身をもち崩すことから、まぬがれた。  しかし、少属の勤めは依然として面白くなく、英太郎は、いつとなく、  ——ひとつ、アメリカへ渡ってくれようか。  と、考えるようになった。  昨日まで、大髪を結い、大小を帯び、詩を吟《ぎん》じて往還を闊歩《かっぽ》していた者が、今日は、断髪して、剣を売りはらって洋服を購《あがな》い、洋書を小脇にする変貌《へんぼう》ぶりを示している時世であった。  ——いくら、日本で洋書を読んでみたところで、外国の実情が判るわけではない。この身を、海を渡らせるのが、捷径《しょうけい》ではないか。  船貨五十両あれば、アメリカの桑港《サンフランシスコ》へ渡れるのだ。渡れば、なんとかなる。  たまたま、新政府が、外債五百万両を募り、士族をして家祿を奉還せしめて、その代り一時金を下す準備をすすめている、ときいて、英太郎は、辞表を呈し、依願免官になった。しかし、一時金は下されなかった。  やむを得ず、故郷に在る叔父謙三郎に家屋敷を抵当に百両借用を申し送り、また在京の同志たちをまわって助力を乞うた。叔父から七十両が送られて来、同志からは五十両を集めた。  妻のミチは、その時、懐妊《かいにん》していたが、そんなことにかまってはいられなかった。  洋服と古靴と古鞄を買った英太郎は、妻に五十両を渡しておいて、東京を発った。  明治四年十一月十九日正午。  英太郎をのせたグレートパブリック号は、横浜港を出航した。  上等室には、新政府から派遣される官吏、華族学生、富有商家の息子などが、五十数人も乗っていた。懐中わずか五両しか所持しない英太郎のような貧しい若者は、他に一人も見当らなかった。  下等室は、船底にあったが、日本人は、英太郎だけであった。隣りは、さらに下等で、支那人室になって居り、悪臭が充満していた。  食事の合図の鈴が鳴らされたが、英太郎は、食堂へ出て行かなかった。にぎり飯三日分と梅干を持っていたからである。  次の日になって、英太郎は、邦語をしゃべる米人一人、英人一人を発見して、英語教授を受けることにした。  米人の方は、親切で優しかったし、すぐ友人の間柄になれたが、英人の方は、教師と生徒の間の線を崩さず、教えかたも厳《きび》しかった。しかし、英語の力は、英人によって、みるみる、身につけることができた。  四  五月十三日(新暦六月十八日)。  グレートパブリック号は、桑港に到着した。  英太郎は、英語を教えてくれたブレンドという米人に誘われるままに、馬車に乗って、インターナショナル・ホテルへ行った。  生れてはじめて異邦の都市の景色に、目をうばわれるよりも、今日からこの国で、すごさなければならぬ不安のために、英太郎の状態は、捕えられて運ばれる野生の小動物に似ていた。  ホテルで、食事をふるまわれた英太郎は、米人に別れを告げて、外へ出た。  その米人から書いてもらった領事庁所在地を、通行人に怖《お》ず怖《お》ずと示し乍ら、見知らぬ街を歩いて行った。  英太郎は、正領事ブルックス宛の東京府・府兵局長の紹介状を、持っていたのである。  領事庁をたずねあてて、正領事に面会をもとめると、ブルックスは、岩倉大使に従って、ニューヨークに行って留守であった。ドンという副領事が引見《いんけん》してくれたが、べつに、なんの役に立ってやろうとも、云ってはくれなかった。  満足に英語もしゃべれぬ二十歳の日本人若者の無謀な渡米を、ただ、冷《ひや》やかに眺めたばかりだった。  英太郎は、ドン副領事から、桑港には、日本人はわずか二十名しかいない、ということを、きかされただけで、辞去しなければならなかった。  実は、英太郎は、アメリカに、たよるべき友人が、一人いた。同郷の上林迂太郎であった。上林迂太郎は、英太郎より五歳年長で、二年前に、渡米していた。官給留学生ではなく、私費で、単身おもむいて来たのである。河内の自家は、旧家であったが、さして富有というわけではなく、迂太郎が渡米を願い出ると、その父親は、田地を売って、旅費と学資をつくってくれた、という。  英太郎は、上林迂太郎を、その下宿さきにたずねた。すると、迂太郎は、半年前から、二十余里はなれたサンマトヨという村の学校にいるということだった。  英太郎は、たった一人で、生計の方法、習学の方針を樹《た》てなければならなかった。  おぼつかない英語で、下宿させてくれる家を、さがしあてるのだけでも、容易ではなかった。英太郎が、やっと、カリフォルニヤ街の、おそろしく薄穢《うすぎたな》い下宿屋の屋根裏部屋の、毀《こわ》れたベッドヘ、身を横たえることができたのは、三日後であった。  そして、英太郎が、えらんだワシントン街のギブソン学校というのは、支那人を主として、その他の東洋の弱小国から、下僕《げぼく》としてやとわれて来た者たちに、英語を教える学校であった。学問などを教える学校ではなく、いわば下僕養成所だった。  さいわい、その学校の支那人生徒の一人の口ききで、英太郎は、太平洋汽船の船長の家に雇われた。勿論、主人不在で、その妻と二十歳の息子と十七歳の娘の三人ぐらしであった。  その家の掃除夫になってみて、英太郎は、日本人が土人としか視《み》られていないことを思い知らされた。娘の靴をみがいて、その足へはかせてやらねばならぬ屈辱は、堪《た》えがたいものがあった。  主婦も息子も娘も、わがままで、傲慢《ごうまん》で、まるで、英太郎を奴隷あつかいした。その屈辱よりも、もっと堪えきれなかったのは、極端な粗食であった。  二十余日の奉公は、死ぬほどの苦痛だった。  ギブソン学校の校長に呼ばれて、サタ街に住むペロという運送会社の重役が、日本人を使いたい、と世話がたをたのまれたので、行ってみないか、とすすめられた時、英太郎は、蘇生《そせい》の思いをした。  ペロというスペイン人は、一度日本へも渡ったことがあり、差別的な態度はすこしも見せなかった。樽《たる》のように肥ったその妻も、人が好さそうであったし、十二歳の反《そ》っ歯《ぱ》の娘も、にこにこして、英太郎の頬《ほお》へキッスをした。  英太郎は、その家で一年間をすごした。  肥った主婦がはなつひどい|わきが《ヽヽヽ》の臭気を我慢すれば、気楽な奉公だった。  その一年のあいだに、日本から手紙がとどき、妻ミチが、女児を分娩《ぶんべん》したと報せて来た。  すこしずつ貯金もできたし、英語もうまくなった。しかし、それだけのことで、英太郎が目的とする学問の途《みち》は、閉ざされたままだった。日本人に対して、大学の門は、まだ、ひらかれていなかったのだ。  英太郎は、三日あまりの休暇を得て、二十余里へだてたサンマトヨ村の学校を、訪れてみたが、上林迂太郎は、その学校の学生ではなかった。小使いをやっていたのである。  やがて——。  英太郎は、オレゴン州フォルストグランドという地で、元静岡県藩士族の子弟たちが、官給留学生として、そこの高等学校に在学している、ということを耳にした。オレゴン州では、日本人でも支那人でも、差別せずに、入学を許可している、という。  英太郎は、フォルストグランドへおもむくことにした。  夏の一日、桑港から、貨物船に臨時水夫として乗った英太郎は、コロンビア河口に達し、そこから二百余|哩《マイル》を溯《さかのぼ》って、ポートランド港に着いた。ポートランドからフォルストグランドまでは、汽車であったが、毎朝八時に、一回の発車があるのみであった。  その汽車の乗客は、大半が黒人であり、英太郎は、その臭気に、しばしば眩暈《めまい》におそわれて、窓から首を突き出さなければならなかった。  フォルストグランドの高等学校へ、紹介者もなくいきなり訪れた英太郎を、マーシイ校長は、こころよく迎えて、働くべき農家も、世話してくれた。すでに七十を越えた老夫婦の農家は、きわめて貧しげであった。しかし、学校謝金一年分三十五|弗《ドル》を負担して、午前八時から午後三時半までの通学をみとめてくれた。英太郎が、入学を許されたのは、高等学校ではなく、小学校であった。マーシイ校長は、英太郎の語学を調べてみて、それだけの力しかない、と断定したのだ。  十歳前後の生徒に混って、二十二歳の日本人苦学生は、必死になって、勉強した。  五  英太郎が、翌年夏になって、桑港へ戻って来たのは、病名不明の病いに罹《かか》ったためであった。  畑に出て、桜の実を採《と》っている時、にわかに、眩暈がして倒れ、そのまま、高熱を出して、十日あまり寐込《ねこ》んだ。熱はひいたが、全身に湿疹《しっしん》がひろがって、老夫婦がくれる薬では、治りそうもなかった。フォルストグランドに、医師はいなかった。そういう僻邑《へきゆう》だったのだ。病院は、ポートランドにしかなかった。  気の狂いそうな全身のかゆみにもだえ乍ら、英太郎の想念は、苦学生というもののむなしい絶望の淵《ふち》へ陥込《おちこ》んだ。  このまま、このオレゴンの僻邑で、小学校から高等学校までの課程を、数年進んでみたところで、いったい、自分は、何を得るのか!  英語が、自由にしゃべれる——ただそれだけの人間になるだけではないか。貧しい農家の使傭《しよう》人として、働いてみたところで、なんの知識も身につけることはのぞみ得ぬ。  ——帰ろう!  英太郎は、決意した。  高等学校に在学している元静岡県藩士族の日本人たちは、すでに、去ってしまっていた。その消息もきかなかった。  英太郎は、病いの身を、船で、桑港へはこんだ。  ドン副領事の紹介で、ある医師の無料診断を受け、下宿屋で一月あまり寐た挙句《あげく》、英太郎は、ハイド街に、一雇主を得て、住み込んだ。  フランス系のその家は、不親切で、こき使うことしか知らなかった。英太郎は、雇家を転々としはじめた。やとってくれるどの家も、英太郎に、寸暇も与えなかった。奴隷扱いしかしてくれなかった。  英太郎は、桑港へ戻り着くまでは、日本へ帰る|ほぞ《ヽヽ》をかためていた。しかし、桑港へ戻ってみると、このまま、帰国するのは、あまりに不甲斐《ふがい》ない、と思われて、もう一度、気持を変えて、アメリカにとどまってみよう、と自分に云いきかせたのだった。  しかし、奴隷奉公以外に、前途のひらける希望は、なかった。  そうした折、不意に、上林迂太郎が、英太郎を、訪ねて来た。  上林迂太郎は、ひどく、痩《や》せて、暗い顔をしていた。 「どうかしたか?」  訊《たず》ねると、迂太郎は、溜息《ためいき》をもらして、 「することなすこと、全部|裏目《うらめ》だ」  と、こたえた。  迂太郎は、去年、オークランドのミムタリイ中学校主の学僕となっていた浜尾|新《あらた》(のちの東大総長)をたよって行き、浜尾の推挙で、自分も学僕になることを許可されたのであった。ところが、今年春、同中学校が、原因不明の失火で、烏有《うゆう》に帰し、浜尾ともども、焼け出されたのであった。 「もう、希望も、夢も、潰《つい》えた」  迂太郎は、投げすてるように、云った。  英太郎は、こたえる言葉が、なかった。  上林迂太郎は、それから、十日後に、帰国のために、桑港をはなれた。  しかし、迂太郎は、ついに、日本へは帰り着かなかった。横浜へ入港する二日前、迂太郎の姿は、船から消えた。  迂太郎が船室にのこした英太郎宛の遺書が、桑港へ回送されて来たのは、二月後であった。  父祖の家産を傾け、洋行せしも、業を為《な》さずして帰朝する自分に対して、父母はじめ親族知己の期待はあまりに大きく、その期待に応《こた》えることの不可能を思い、自らを裁《さば》かざるを得ぬ仕儀《しぎ》と相成ったことを、後日貴公帰朝のあかつき、わが家を訪れて、説明して欲しい。  そういう文面であった。  英太郎は、その時、すでに、帰国の決心をしていた。  ——もしかすれば、自分もまた、大海原へ身を投ずるかも知れぬ。  ふっと、その予感がして、英太郎は、背すじに、悪寒をおぼえたことだった。  明治六年十月三日、英太郎は、青雲の志むなしく、桑港をはなれた。  帰り船は、偶然にも、渡米の時と同じく、グレートパブリック号であった。  カラフト隠密  一 「今月は、ひとつ、徳川三百年の歴史の上に現れた最大のロマンチストの話をするかな」  等々呂木神仙《とどろきしんせん》は、そう云って、当今珍しい大きな渋《しぶ》うちわで、バタバタと自分の裸体《らたい》を、たたいた。  この家のうしろは、深い竹藪《たけやぶ》になっていて、蚊《か》がひどいのであった。蚊取り線香ぐらいで、にげるようなひよわなしろものではなかった。 「それは、誰ですか!」 「間宮林蔵《まみやりんぞう》だ」 「間宮林蔵が、ロマンチスト?」 「そうじゃ。大ロマンチストだ」 「間宮海峡の発見者であることで、ロマンチストときめるのは、いささか、早計じゃないですか。林蔵は江戸へ帰って来ると、シーボルトを告発して、当時最高の科学者の高橋景保《たかはしかげやす》を獄死させているし、そのあとで、隠密《おんみつ》になり、乞食姿で、長崎や薩摩や石見《いわみ》へ、もぐり込んで、冷酷無慚《れいこくむざん》な探索をやってのけている。リアリスト以外の何者でもないようですがね」 「小説家のくせに、皮相な観《み》かたしかできんとは、なさけないのう……。間宮林蔵が、なぜ、生死を賭《と》して、カラフトを探検したか、シーボルトを告発したか、隠密になったか——その目的は、たったひとつだったのだ。林蔵は、ある夢を胸中に抱いておった。その夢を実現したいばかりに、林蔵は、その生涯を、異様な行状でつらぬいた。歴史家の考説は、その肝心《かんじん》の一点を、看《み》のがしている」  神仙老人は、悠々《ゆうゆう》たる自信をもって、云った。 「うかがいましょう」  私は、坐《すわ》りなおした。  間宮林蔵は、安永四年、常陸《ひたち》国|筑波《つくば》郡|上平柳《かみひらやなぎ》村に生れた。家は、代々百姓だったが、箍《たが》職も兼ねていた。百姓のくせに、間宮という姓を私称していたところをみると、祖先は、さむらいだったのだろう。  林蔵は、物心ついた頃から、抜群の知能ぶりを示した。友達と遊んでいる時も、必ず竹竿を携《たずさ》えていて、樹木の長短から、河流の深浅、道路の遠近を測るのを、愉《たの》しみにしていた、という。  十三歳の時、村人に随《つ》いて、筑波山に詣《もう》でたが、急に、行方をくらました。  一行は、旅籠《はたご》で待ったが、夜に入っても、林蔵が戻らないので、あわてて手わけして、さがしまわったが、ついに見つからなかった。  翌朝、林蔵は、ふらりと、旅籠へ姿を現した。  どこへ行っていた、と訊《たず》ねると、 「頂上に、立身の岩窟《いわや》というのがあるじゃろ。あそこに坐って、手燈をともしていた」  とこたえた。  掌に油をたらし、これに燈心を漬《つ》けて、火を点《とも》していた、という次第である。  一行は、林蔵が、立身を祈願して、そうしたのだ、と疑わなかった。  そうではなかった。  実は、林蔵は、その岩窟の壁に、一枚の絵を貼《は》りつけて、それに対して、一心に念じたのだ。  その絵というのは——。  逆《さか》まく怒濤《どとう》を受ける岬の岩の上に透ける白衣をまとうて佇立《ちょりつ》する美女を描いたものだった。  二の腕あらわに、双手をあげて、烈しい汐風になびく金髪をおさえ、透ける白衣の下に、豊かな胸の隆起、腹部、下肢を張っていた。  神秘《くしび》なまでの美しい姿容だったのだ。  林蔵は、これを、近隣の非人部落の男から、ゆずり受けたのだった。  林蔵は、村人が忌みきらう非人部落にも、平気で遊びに行き、そこの子供たちに、草刈籠を、輿《こし》にして棒でかつがせ、それに乗って、合戦《いくさ》ごっこなどして遊んでいたのである。  その非人部落の一人の男が、身分をかくして、遠く蝦夷《えぞ》まで働きに行き、老齢になって、帰村していた。  林蔵は、その老人の小屋を訪れて、北の果ての珍しい話をきくのを、愉しみにしていた。  ある時、老人は、蝦夷のむこうに、韃靼《シベリヤ》大陸がつき出た半島があり、カラフトと呼ばれている、と話した。  そして、そのカラフトへ渡った時、ロシヤ船が到着したのに出会い、その船長から、毛皮と交換してもらったのだと云って、老人は、一枚の絵を、林蔵に見せた。  十三歳の林蔵は、実は、すでに年上の下婢《かひ》によって、男になっていた。  描かれた金髪の美女を、一瞥《いちべつ》したとたん、林蔵は、その神秘なまでに妖《あや》しい姿容に魅せられてしまった。  老人は、魂をうばわれた少年を、眺めて、 「欲しければ、持って行きなされ」  と、与えた。  林蔵は、その言葉にわれにかえり、 「こんなきれいな女子《おなご》は、この世にはいないのじゃろ」  と、老人を視た。  老人は、かぶりを振った。 「これはな、その船長の話では、生きている女子を写したものじゃそうな。異国には、こういう、金髪の、青い眸《め》子をした、雪の肌の美人が、いくらでも居るらしい。……げんに、わしは、カラフトのアイヌ女と、ロシヤ男とのあいだに生れた娘に、出会うたが、この絵ほど美しゅうはなかったが、それでも、はっとならされたものじゃった」  この言葉が、林蔵の生涯を決定した、といえる。  林蔵は、立身の岩窟の中で、その絵の美女を瞶《みつ》め乍《なが》ら、  ——どうぞ、自分に、たった一度だけでよいから、このような女子に会わせて下され。  と、祈りつづけたことだった。  もとより、このひそかな祈願を、林蔵が、口外するものではなかった。  二  林蔵は、十五歳になると、江戸へ出た。  江戸で、どこに寄寓《きぐう》して、どんな修業をしたか、なんの記録ものこっては居らぬ。  ただ、はっきりと云えることは、蝦夷へ渡り、さらにカラフトヘふみ込む、という目的をやりとげるために、必死になったことは疑いない。  村上|島之允《しまのすけ》という人物がいた。老中松平定信に見出されて、関東諸国の地図を、実地調査して、作製した。林蔵は、この村上島之允に随身した。地理学をまなび、その役職に就けば、必ず、蝦夷へ行く機会が来る、と考えたのだ。  その機会は、やがて来た。  寛政十年、村上島之允は、近藤重蔵の東蝦夷調査隊に加わって、蝦夷に渡った。半年後、江戸へ還《かえ》った島之允は、翌十一年、ふたたび、蝦夷地御用掛総裁松平|忠明《ただあきら》(書院番|頭《がしら》)に随行した。  林蔵は、その時、島之允の従者として、蝦夷行きに加わることができた。  松平忠明は、その年を越さずに帰府したが、島之允、林蔵主従は、蝦夷にとどまった。次の年——十二年八月、林蔵は、蝦夷地御用掛の雇《やとい》になった。島之允からはなれて、一人立ちしたわけだ。  この年、林蔵は、蝦夷地東南岸測量のために渡海して来た伊能忠敬《いのうただたか》と、箱館《はこだて》で、出会っている。  林蔵は、忠敬に乞うて、その測量を手伝っているうちに、私淑した。  林蔵は、忠敬が、日本のみならず、世界の地理にくわしいことを知ると、ついに決意して、胸中に秘めていた念願を、打明けることにした。  肌身につけて、はなさずにいた絵をさし出し、 「まこと、このような美女が、異邦には住んでいるのでありましょうか?」  と、訊《たず》ねた。  忠敬は、すでに、このような美女像は、オランダの書物でしばしば見ていたので、さしておどろかなかった。 「オランダあたりの王侯の夫人や息女には、一瞥《いちべつ》、気遠くなるような美しいひとがいるようぞ」 「それがしは、このような美女に、生涯ただ一度でよいから、めぐり会いとうござる」 「国禁を犯して、海を渡らねば会えまい」 「いや、それがしは、会うならば、抱きたいのでござる。あわよくば、江戸へともなって、妻にいたしとう存じます」 「それは、とうてい、無理な相談であろう」 「無理を承知で、その念願を、死ぬまで持ちつづけます。国の果てを巡りあるいているうちに、異邦船に出会い、もしや、このような美女を、その国から連れて来てもらえまいか、と歎願いたせば、あるいは、実現も可能かと存じます」  忠敬《ただたか》は、その執念を、林蔵の表情に看てとって、これを痴人《ちじん》の妄想とあざけるわけにはいかなかった。 「カラフトの奥地に入れば、ロシヤ人が、アイヌの女に産ませた美しい娘に、出会うかも知れぬ」  忠敬は、非人部落の老人の言葉を裏づけるような言葉を、口にした。 「必ず、カラフトに渡ります」  林蔵は、誓ってみせた。  享和二年、林蔵は箱館奉行雇になった。この頃から、文化三年にかけて、林蔵は、東蝦夷地、クナシリ、エトロフの測量、製図に従事している。  三  文化四年四月二十九日——。  千島エトロフ島のシヤナの沖合に、二隻のロシヤ軍艦が出現した。  シヤナに設けられてあった南部、津軽両藩の陣屋は、素破《すわ》、とばかり色めきたった。  エトロフ島が開島されたのは、寛政十二年で、すでに七年の歳月を経て、漁場十七箇所になっていた。  この開島は、言語に絶する苦難をともなった。  同島で越年した津軽藩士の記録がのこっている。  それによれば、旧暦十月頃から、夜になると、炉《ろ》に薪《まき》を火事場のように燃やし、蒲団《ふとん》を敷いた上に熊の毛皮一枚を延べ、さらに、その上へ蒲団一枚、そして、綿入三枚も着込んで、掛具三枚をかさねて寝ても、夜更けになると、からだ中がざわざわして、目がさめてしまう、というしまつだった。夜具は、板のように凍《い》てついた。住居も、すべて板サクリ(板のつぎ目に溝を掘って、別の板を食い込ませた板壁)にし、内壁を厚く泥塗りしてあったが、その壁には、いたるところに氷柱《つらら》がさがった。  さきの年、ロシヤ来襲にそなえて、宗谷駐屯から、北見の斜里へ移って来た津軽藩兵は、三月も経ないうちに、壊血病《かいけつびょう》でバタバタと仆《たお》れ、次の年の夏、交替船が来た時には、越年した者百三人のうち、生き残っていたのは、わずか十七人であった、という。  北辺の守備についた藩士らは、このような決死の困苦に堪えていたのだ。したがって、いずれも、栄養失調でひょろひょろになり、武士の気概も失いかけていた。  急報によって、直ちに会所では、緊急評議がひらかれた。  シヤナの責任者、箱館奉行調役下役元締の戸田又太夫と同下役の関谷茂八郎は、弾薬が不足しているゆえ、津軽、南部両藩兵と、会所の守備兵が合流して、一箇所に籠城《ろうじょう》し、敵が上陸して来るのを待ち受けて、反攻すべきである、と主張した。これに対して、雇医師久保田|見達《けんたつ》は、こちらから一挙に攻撃して、追いはらうべきである、と主張した。久保田見達は、備中松山藩士で、幼少から武術を好み、軍学も修めていたが、それがかえってわざわいして主家を去って、医師になった人物であった。  見達には、一戦にも及ばず、はじめから籠城する、という戸田、関谷の消極作戦が、甚だ気に食わなかった。  間宮林蔵は、たまたま測量のために、シヤナに来て居り、評議に加わっていた。しかし、口出しすべき立場にいないので、黙っていた。しかし、心中では、ひそかに期するところがあった。  その夜半、林蔵はただ一人起き出て、身ごしらえして、提灯《ちょうちん》を持ち、海辺まで降りて行った。  ロシヤ兵が上陸して来たならば、隊長を生捕ってやろう、という大それた計画を肚裡《とり》に抱いていたのである。その目的は、功名ではなかった。  翌朝、会所は、籠城のため、上を下への騒動を起した。本陣を、会所の上の山手にきめて、草を刈り、幕を張ったが、烈風のために、忽《たちま》ち幕は破れてちぎれとんだ。やむなく、会所の前の土手に、板で三、四尺取りの矢切りを設け、南部家の長柄《ながえ》、昇旗、吹流しなど、立てた。  久保田見達は、この騒動を眺めて、嘲笑した。 「端午《たんご》の節句のかざりつけでも、斯様《かよう》な見苦しいまねはせぬ。……たわけた備えよ!」  そう吐きすてて、かたわらの林蔵に、 「坐してみな殺しにされるよりは、お手前とそれがし二人だけでも、攻め出て、華々しゅう討死いたそうか」  と、云ったことだった。  ロシヤ軍艦は、次第に近づき、午《ひる》をまわった時刻、端艇《たんてい》三艘で、上陸を開始して来た。  これを眺めた林蔵は、はじめて、大声を発し、 「いまこそ、砲撃して、沈めるべきでござろう!」  と、南部藩大砲役大村次五平に迫った。  しかし、大村次五平は、かぶりを振って、とり合わなかった。  林蔵は、次五平の料簡《りょうけん》が判らず、 「この儀、御老中に申し立てるぞ!」  と、叫んだ。それでも、次五平は、動かなかった。林蔵も、見達も、端艇のひとつがのせている大砲の威力を、おそれていたのである。敵が、大砲を陸にひきあげぬさきに、こちらから、砲撃して、海中へ落してしまえば、勝利はあきらかである、と判断したのだ。  ロシヤ側は、日本側が沈黙しているあいだに、大砲をひきあげ、据《す》えつけると、撃ちかけて来た。  ようやく、大村次五平は、反撃を叫んだ。  しかし、実戦の経験のない、栄養失調でひょろひょろの守備兵は、飛来する弾丸に、きもをつぶして、おろおろするばかりであった。  まともの戦闘には、ならなかった。  ようやく、玉込めして撃っても、とんでもない方角へ飛んでしまって、茫然自失する、というなさけなさであった。  そのうち、大村次五平自身が、どこかへ、姿をくらましてしまった。 「腰抜けどもが! この上は、わしが、撃ってくれる!」  見達は、自ら、百目玉筒を、二町もある山の上へかつぎあげた。ところが、いざ撃とうとすると、鋳型ちがいで、弾丸が砲筒にはまらなかった。  やむなく、南部陣屋の前まで、馳《は》せ下って、そこに据えた一貫七百目玉の大筒を、撃とうとしたが、撃つ仕掛けすらしていなかった。  見達は、絶望して、匙《さじ》を投げた。  ロシヤ側の砲撃は、いよいよ熾烈《しれつ》となり、会所の屋根、玄関、表門は、砕け散った。守備兵は、一人のこらず、山へ逃げ込んでしまった。戸田、関谷の責任者二人は、会所の居間にとじこもって、蒼白になったまま、顔見合せているばかりであった。  その間、林蔵は、どうしていたか。  林蔵は、単身、草地をすべったり、匍《は》ったりして、敵陣に近づいていた。  懐中には、例の美女の絵を持っていた。  二間の距離まで、忍び寄った時、ロシヤ兵の一人が気がついて、何か叫びつつ、小銃を狙《ねら》いつけた。  林蔵は、夢中で、絵をかかげて、突っ立った。  武器の代りに、美女の絵を見せられて、襲来の異邦隊は、あっけにとられた。  隊長らしい長身の男が、大股に近づいて来て、その絵を取り、じっと眺めてから、なにやら云いかけた。  林蔵は、美女を指さし、おのが胸をたたいた。  隊長は、その意味を汲《く》みとったらしく、林蔵の肩をたたくと、笑って、なにか云った。そして、美女を示し、抱くしぐさをしてみせた。うしろの兵らが、どっと笑い声をたてた。  隊長は、絵を林蔵に返すと、ひきあげの号令を下した。  |しゃれ《ヽヽヽ》の判る隊長であったおかげで、林蔵は、射殺されるのをまぬがれたわけだ。  日本側は、評議の挙句、退去に決した。その時、会所へ戻って来た林蔵は、憤然となって、 「それがしは、そういう議決など、知らぬ! 貴殿がたが、どうしても退去されるならば、それがし一人は、評議に加わらなかったという証文を頂戴いたしたい」  と、云った。  誰も、対手《あいて》にしようとしなかった。  見達がなだめて、 「お手前が、一人残って、鬼神の妙計でもある、と云われるならば、わしも、一緒に残るが——」  と、云った。  流石《さすが》に、林蔵も、一人残って、捕虜になるのは、いさぎよしとしなかった。  シヤナ守備隊二百余名の退去行は、惨憺《さんたん》たるものだった。落ち行く先は、五里はなれた南のルベツだった。  戸田又太夫は、途中で、責任を負うて自決して果てた。  四  ロシヤ軍艦は、その翌日も、大砲を撃ちかけて来たが、もはや一兵も残っていないとたしかめると、川をわたり、斜面をのぼって来て、土蔵に貯えてあった諸貨物、会所の諸調度ことごとく、奪いとった。そのあと、建物を焼きはらい、日光大|権現《ごんげん》、稲荷《いなり》、弁財天《べんざいてん》の三社ならびに数町はなれていた高田屋嘉兵衛が勧請《かんじょう》した金毘羅《こんぴら》宮の祠《ほこら》までも、火を放って烏有《うゆう》に帰せしめた。  すでに、それまでに、ロシヤは、外辺のいたるところで、劫掠《ごうりゃく》をほしいままにしていた。  幕府は、エトロフ侵略の急報に接するや、ただちに、最上徳内、高橋次太夫、近藤重蔵、村上島之允ら蝦夷地調査のベテランを、急遽《きゅうきょ》、派遣して来た。  堀田|摂津守正敦《せっつのかみまさあつ》も、すこしおくれて、箱館に到着した。  ロシヤの南下にそなえて、カラフトを防衛しなければならなかった。しかし、そのカラフトは、天明五年から三回にわたって調査していたが、いまだ奥地の状況を知ることは不可能であった。  幕府の閣老はじめ、北辺にくわしい最上徳内らも、すべて、カラフトは、韃靼《シベリヤ》大陸と地つづきの半島だ、と思っていた。  したがって、ロシヤの軍勢が、韃靼大陸からカラフトヘ、大挙南下して来るおそれがある、と考えたのだ。  蝦夷とカラフトは、海をへだてているとはいえ、指呼の間であり、蝦夷海辺の防備はきわめて手薄である。ロシヤ軍が、攻め入ろうとすれば、なんの造作もない。  ロシヤ軍は、蝦夷を奪えば、必ず、わが日本本土を狙《ねら》うに相違ない。  この恐怖を払うためには、カラフトの奥地をくわしく探って、はたして、大軍勢が下って来れるか来れないか、たしかめておかねばならぬ。  また、カラフトは、大陸と陸つづきではなく、島である、という説もあるので、それも知る必要がある。島であれば、ロシヤは、大軍勢を渡らせて来ることは、まずないから、ひと安堵《あんど》である。  堀田摂津守を主席に据えて、ベテランたちの評議がなされた結果、カラフトの奥地へふみ込んで、調査する任務が、二人の人物に命じられた。  松前奉行支配下役、松田伝十郎と、普請役|雇《やとい》、間宮林蔵であった。  最初、候補にのぼったのは、最上徳内、高橋次太夫であった。しかし、隠密になるには、二人は、すこしばかり、身分が高すぎた。万一、捕えられた時のことを考慮すれば、身分のひくい者にこしたことはなかった。  徳内、次太夫は、すでに、いくどもカラフトへ渡っているベテランであるが、どちらも五十を越えた初老であった。老いを知らぬ強者であっても、人跡まれな極寒地を踏破するには、不安があった。  そこで、人選は急に変えられた。  この時、松田伝十郎は四十歳、間宮林蔵は三十四歳だった。  林蔵は、妻子を持たぬ身軽な境遇に在《あ》った。林蔵には、妻をめとる意志は、毛頭《もうとう》みじん、なかったのだ。  林蔵は、出発にあたり、 「大船ではなく、小舟で渡ること。焼米、糒《ほしい》を多量に持参することは不可能ゆえ、魚を獲って干して食すべきこと」  などの指示を与えられた。  林蔵は、図合船《ずあいぶね》という小舟で宗谷におもむいた。文化五年三月のことだった。  松田伝十郎は、その宗谷で、林蔵を待っていた。  宗谷は、カラフトの南端シラヌシと、海上八里をへだてる、蝦夷最北端の要害で、津軽藩が、二百名を警備させていた。しかし、役に立つ大砲など、一台も据えつけて居らず、エトロフ事変同様、ロシヤ軍艦が二隻も襲って来れば、あえなく、攻め落されそうであった。松田伝十郎は、その警備兵の監督だった。  伝十郎と林蔵は、宗谷で、約一箇月のあいだ、探検の準備をした。  生還は、期しがたい。伝十郎は、宗谷にのこしておく従僕に、 「もし、奥地に於て、落命するか、ロシヤに捕えられるかして、年を越しても、帰って来なかった時には、宗谷出航の日を、忌日といたすよう、津軽へ帰って、家人に伝えておけ」  と、云いふくめた。  林蔵の方は、さほど、悲壮な気色は示さなかった。  守備隊指揮の津軽藩重役山崎半蔵から、その決死行をねぎらう宴を催された席上、 「カラフトが、韃靼大陸との陸つづきならば、ロシヤまでも、ふみ込んでみとうござる。場合によっては、ロシヤ人に相成るとも、一向に悔い申さぬ。おそらく、再びお目にかかることはないであろう、と存じます」  と、云って、笑っている。  その心中には、韃靼大陸の彼方に住むであろう、この世のものならぬような臈《ろう》たけた美女の姿が、想い描かれていたに相違ない。  四月十三日、伝十郎と林蔵は、図合船で、宗谷を発して、海峡を渡った。  さて、両人のカラフト探検だが、それは、ここで、くだくだしく、経緯を述べるのは、わずらわしい。知りたいと思う人は、松田伝十郎が記述した、北夷談でもさがして、読んでもらおう。  両人は、カラフトの白主《シラヌシ》に到着すると、そこで、伝十郎は西岸、林蔵は東岸を、それぞれ北進することにして、袂《たもと》をわかっている。  ここで、述べておかねばならぬことは、東岸を北進した林蔵の、その進みかたの早さだ。  脇目《わきめ》もふらずに、北|知床《シレトコ》岬まで進んだ。進み乍ら、林蔵が必死になって、血眼で探しもとめたのは、アイヌ女とロシヤ男とのあいだに生れた娘であった。  不運にして、林蔵は、混血の美女にめぐり会わないまま、北知床岬に住むアイヌの老人から、 「ロシヤ人は、こっちの東岸には来ない」  と、きかされた。 「どうして、東岸に来ないのだ!」  林蔵が訊ねると、老人は笑って、 「このカラフトは島じゃ。船でなければ、こっちへは来られぬ」  と、こたえた。 「そうか、島か」  林蔵が、急遽、丸木船《チップ》で、タライカ湾を下って、カラフトで最も狭い地峡をなしている東岸の真縫《マアヌイ》から西岸の久春内《クシュンナイ》へ、山越えして、西岸を北進したのは、そのためだった。  林蔵が、伝十郎と再会したのは、ノテトだった。  ノテトは、カラフトと大陸との間の海峡が、急にせばまったところにある。  伝十郎は、その奥のラッカまで進んで、ノテトへひきかえして来ていたのだ。ラッカと大陸との間の水道は、わずか四里、彼方に、山靼《さんたん》の陸地も、ごく近いものに眺められ、北方には、遠く黒竜江の河口も望見された。  そこで、伝十郎は、「カラフトは、島に相違ない」と判断したのだ。  ラッカから先へ行くことは、なぜか、アイヌ人たちがおそれたので、伝十郎は、北進を断念して、ノテトまでひきかえして来たのだった。  そこへ、林蔵がやって来た。  林蔵は、伝十郎から、 「離島《りとう》ということが判明いたしたからには、これ以上、危険を冒して、北進の必要もあるまい」  と、帰途を促されたが、頑《かたく》なにかぶりを振って、 「ラッカのさきが、もしかすれば、山靼と陸つづきかも判り申さぬ。せっかく、ここまで参ったからには、それをたしかめるべきでござろう」  と、主張した。  伝十郎は、迷惑に思ったが、林蔵の必死な表情を眺めると、 「それでは、身共は、ラッカまで案内いたそう」  と、妥協した。  ラッカまで行けば、いかに、林蔵といえども、泥土の海岸は歩行は困難だし、海は浅瀬でアイヌの丸木舟《チップ》でも進むことが不可能であることを知らされて、あきらめるであろう、と考えたのだ。  両人は、アイヌ舟で、ノテトを出発して、ラッカに向った。  干潮と風の具合で、舟はヤツコ岬をまわることは不可能だったので、岬の東一里あまりのところから、海岸を進んで、岬を越え、ようやくラッカ川の畔《ほとり》へ到った。  そこまで案内した伝十郎は、 「お主が、これから、一里でも奥へ進めば、お主の手柄と申すもの」  と、云いおいて、踵《くびす》をまわした。  林蔵は、伝十郎の後姿を見送っておいて、随従のアイヌ人に、北を指さした。 「参ろう!」  しかし、アイヌ人はかぶりを振った。その顔には、恐怖の色が刷《は》かれていた。  林蔵は、懐中から、油紙に包んだ例の美女の絵を、とり出した。 「わしは、このような美女をさがして居るのだ。……お前は、これに似た娘を、見たことがないか? この奥地へ行けば、会うことができるのではあるまいか? 教えてくれ。教えてくれるならば、これをつかわそう」  脇差をさし出されたアイヌ人は、しばらく当惑の面持でいたが、 「むかし、こんな貌《かお》の小さな娘を、見たことがある」  と、こたえた。 「そうか! 見たことがあるか? どこで、見た?」 「ナニオーで見た」 「ナニオー?」 「ここから、五十里も、奥にある」 「そうか! そこに、ロシヤ人が住んで居るのだな?」  アイヌ人は、見たのは十年も前のことだから、もういないだろう、とこたえた。 「居るか居らぬか——行ってみなければ、わかるまい」 「今年は、駄目だ」 「なぜ駄目なのだ?」 「満州《マンジー》から、山靼《さんたん》人が、貂《てん》を獲《と》りに、百人もこの奥に来ている。山靼人は、倭人《わじん》に恨みを持っているから、行けば、きっと殺す」  殺されては何もならぬので、林蔵は、泪《なみだ》をのんでひきかえすことにした。  しかし——。  ——来年は、必ず、ナニオーというところまで、行ってくれるぞ!  と、胸中に誓っていた。  五  間宮林蔵が、カラフトの北端ナニオーめざして、単身で遮二無二進んだのは、第一回探検から半年後の文化六年正月だった。  林蔵は「東海岸再検分」という命令を受けて、宗谷を出発したのだったが、東海岸を北上する意志など、毛頭みじん持ってはいなかった。  東海岸には、林蔵がもとめる、「巌頭《がんとう》の美女」に似た金髪の娘が、住んでいないことがはっきりしていたからである。  カラフトが、離島であることは、松田伝十郎によって、たしかめられている。林蔵が、今更、危険を冒して、それを見とどけに行くまでもないことだった。  松田伝十郎は、林蔵が、再北上の許可を願い出るのを、訝《いぶか》って、その理由を問うた。  林蔵は、 「離島であることを、この目でたしかめてみたいだけのことでござる」  と、こたえたが、伝十郎を納得《なっとく》させるわけにはいかなかった。 「お主、もしかすればロシヤまで踏み込んでみる心算《つもり》ではないのか」  笑い乍らそう云って、さぐるように、林蔵を見据えたことだった。  林蔵は、トンナイ(真岡)の番屋で越年して、正月二十九日、六人のアイヌ人をひきつれて、西海岸を北上した。ウシヨロというところに至って、山靼《さんたん》人をおそれるアイヌ人たちをトンナイにかえして、あらたにその地のアイヌたちを雇い、四月はじめ、第一回の探検でおなじみになったノテトに到着した。  第一回は、ここからすこし奥のラッカまで行って、ひきかえしている。  アイヌ人たちは、丸木舟《チップ》で進むことは、どうしても肯《がえん》じなかった。林蔵は、大陸のコルデッケ人の作った山靼船を借り受け、ギリヤーク人を一人、水先案内として、進むことにした。  海上の氷結が、船を進ませる程度に溶けるのを待つあいだ、林蔵は、ギリヤーク人部落を歩きまわって、肌身につけていた例の絵を示して、 「これに似た娘を見た者は居らぬか?」  と、しつこく尋ねた、という。  首を縦に振る者は、一人もいなかった。  五月八日——。  林蔵は、山靼船で、ノテトを出た。  ラッカも越えた。ワゲ、ボコビ、イクタマーというスメレングル(ギリヤーク)の小屋が点在する部落の海辺をも過ぎた。  その奥は、いまだ、文明人が通ったことのない、全く未知の海峡水域だった。  濃霧の中にとじこめられて、船が停止したままになると、アイヌ人たちは、おのが民族の神に向って、声をあげて、救いをもとめた。水先案内のギリヤーク人も、心細い表情になって、押し黙った。一人、林蔵だけは、胸に燃えている夢のために、昂然《こうぜん》と胸を張っていた。  五日後、霧がはれた時、ギリヤーク人が、悦びの声とともに、灰色の陸地を指さした。そこが、ナニオーであった。  左方には、黒竜江《こくりゅうこう》の河口がひろがり、波濤《はとう》が二つに裂けていた。  海峡のひらけた前方には、北海の海原が、巨大な魔物のすみかのように、無気味な白い波濤を躍らせていた。  林蔵は、ナニオーの陸地を、その足で踏んだ。まさしく、カラフトが離島であることを、その目でたしかめたのだ。  しかし、林蔵にとって、そんなことは、どうでもよかった。  おそらく一年中、地中に雪があるのであろう、足くびまで埋まる湿地を、苦労して、横切って行く林蔵は、彼方に点々とちらばる小屋の聚落《しゅうらく》に、期待の胸をはずませていた。  聚落に近づくと、柵《さく》につながれた犬の群が、見馴れぬ人間を警戒して、けたたましく吠えたてた。  それをきいて、小屋から、ぞろぞろと、人が出て来た。トナカイや犬の皮でつくった上衣をつけている男、草皮をつむいで織った飾りつきの衣服をまとっている女、小さな野獣のように、頭からすっぽりと白い毛皮にくるまっている子供など。  林蔵は、鋭く眸子《ひとみ》を光らせて、若い女を物色した。アイヌ人のように、口辺に文身《いれずみ》している者はなかったので、老若はすぐ判った。  林蔵は、すぐに、娘を二人ばかり見つけた。  しかし、それは、林蔵の失望を買う存在でしかなかった。彫《ほり》のふかい貌《かお》だちであったが、肌身につけている「巌頭《がんとう》の美女」とは、似ても似つかぬ、|ごつい《ヽヽヽ》目鼻立ちだったのである。  林蔵は、念のために、水先案内のギリヤーク人を通訳にして、その絵をかざすと、 「こういう美しい娘がいたら、会わせて欲しい」  と、たのんだ。  夷人《いじん》たちは、互いに顔を見合せた。  長《おさ》らしい、長い髯《ひげ》を持った男が、ギリヤーク人に、何か告げて、対岸の黒竜江の河口の方を、指さした。 「こんな髪の娘なら、海峡を渡らねば、会えぬ、と申して居ります」  ギリヤーク人は、告げた。 「ロシヤにいる、と申すのだな」 「たぶん、そういう意味でしょう」 「よし!」  林蔵は、大きく頷《うなず》いた。 「わしは、ロシヤの経界《けいかい》まで行ってくれるぞ!」  六  おそるべき執念というほかはなかった。  間宮林蔵は、ノテトまでひきかえして来ると、土人の家に滞在して、機会を待った。  機会は、ほどなくやって来た。  ノテトの酋長《しゅうちょう》コーニが、貢物《みつぎもの》を携《たずさ》えて、交易のために、黒竜江に沿うたデレンというところにある満州|仮府《かふ》へおもむくことを、きいたのだ。  林蔵は、勇躍して、同行を乞うた。コーニは、途中の危険を語って、容易に頷《うなず》かなかった。林蔵が、ひきさがるわけがなかった。コーニは、ついに、承諾した。  林蔵は、遺書をしたためて、雇ったアイヌ人の一人に、シラヌシの勤番所へ差出すように命じた。遺書には、カラフトに関する調査資料を添えてあった。  六月二十六日——。  長さ五|尋《ひろ》、幅四尺の山靼船に、酋長コーニ、林蔵のほか六人の土人をのせて、ノテトを発った。  コーニが説いた行路の苦難は、その日のうちに襲って来た。出航して一刻も経たぬうちに、天候が急変し、小山のような波浪が、船をさんざんもてあそび、強い潮流に乗せて、北へ押し流した。  船は、あやうくラッカ岬《みさき》へ、ぶちつけられて、砕けるところであった。風波がおさまるまで、一行は、五日間待たなければならなかった。  ようやくにして、ラッカ岬の蔭を出た船は、盛夏だというのに、肌寒い靄《もや》のたちこめた海上を、ゆっくりと進んだ。  波は、おさまっていたが、それがかえって、無気味な、荒蓼《こうりょう》たる世界に入るのを感じさせた。潮流が速いためであろうか、氷でもぶちつけるような、カチカチというかたい音が、舷《ふなばた》で起っていた。  時折り、イルカの大群が、押し寄せてきて、船の左右を、無言で泳ぎ過ぎて行った。  靄は、ついにはれることなく、三里の海上をつつみ通した。  その靄を割って、薄黒い影を現した東韃靼のモトマル岬を、みとめた一行は、文字通り蘇生《そせい》の思いをした。  靄は、とうてい船の近づけぬ屏風のような断崖を、海へ向って、傾けていた。それに沿って、行けども行けども、雄大な断崖の絶景は、つづいていた。  断崖の上は、鬱蒼《うっそう》たる椴《とどまつ》の原生林がつらなっていた。  風は絶え、海面は鏡のようにしずかに凪《な》いでいた。靄は、いつの間にか消えて、一点のくもりのない空が、ひろがっていた。  水は気が遠くなるほど透明で、その底には、ぞっとするような奇怪な岩が、ひしめきあっていた。  ゆっくりと南下しつづけた山靼船は、翌日、デカストリー湾の北方にあるタバ湾内のムシホーに到着した。  そこから、船をかついで、峠を越えて、キチー湖へ出、湖を横切って、黒竜江を遡《さかのぼ》り、満州仮府の所在地デレンに至る。  この行程は、十日近くかかる。のみならず、キチー湖を根城にする賊を、警戒しなければならなかった。ひとたび、襲撃されたならば、みな殺しになることを覚悟しなければならなかった。  峠を降りて、タバマチー川の畔へ出た時であった。酋長コーニが、非常な速力で川を下る小舟を一瞥《いちべつ》して、はっと顔色を変えた。 「あれは、湖賊かも知れぬ」  漕《こ》いでいた男が、急に、小舟を向う岸へ寄せ、じっと、こちらを窺《うかが》う様子を示すや、コーニは、 「まちがいない!」  と、断言した。 「われわれをおそれさせたならば、近づかぬか!」  林蔵は、訊《き》いた。 「それは、おそれさせれば……」 「よし!」  林蔵は、包んでいた鉄砲をすばやくとり出すと、小舟を狙った。  小舟は、犬二匹、乗せていた。  銃声とともに、その一匹が、もんどり打って、流れへ落ちた。  鉄砲の威力というものを、はじめて知らされた小舟の男は、両手を高くあげると、ひれ伏した。  一行が、無事にデレンに到着することができたのは、鉄砲のおかげであったようだ。  七  デレンは、黒竜江の右岸に、北緯五十一度十五分の位置にあった。  仮府というのは、清国の官人が、満州の三姓《さんしん》から出張して来て、黒竜江沿岸はじめ、カラフトや沿海州方面からやって来る酋長の貢物を受けるところであった。貢物は、主として、貂《てん》の皮だった。  十数間四方に、丸太の柵を二重にめぐらし、その中央にまた柵を設け、その中に、貢物を受けとる建物をつくっていた。酋長たちは、これを木城《ムンチェン》と呼んでいた。  この木城の周辺には、樺《かば》の布《ふ》で掩《おお》った木小屋が、無数にならんでいた。進貢の酋長とその供たちの仮りずまいであった。  浜辺には、かれらの乗って来た船が、ひきあげられてあり、それらの舟を睥睨《へいげい》するように、ひと際目立って巨《おお》きな船が碇泊《ていはく》していたが、これが、三姓からおもむいて来た清国の官人のものであった。  酋長たちが、ここへ、貢物を持参するのは、それだけが目的ではなく、実は交易であった。  貢物をさし出せば、官人から、布帛《ふはく》の賞賜《しょうし》があり、いわばこれも、一種の交易であった。それから中級・下級の官人たちとのあいだに、物資交換がとりおこなわれた。これが主な目的だったのだ。  この仮府の交易所で、交換された諸国の物品は、カラフト南端のシラヌシの交易所へもたらされて、蝦夷《えぞ》ヘ——松前藩の手へ渡った。江戸大阪の人々が、蝦夷錦とか襤褸《つづれ》錦と呼んで珍重し、高いねだんで取引した切地、拾徳《じっとく》は、殆どが、この経緯によってもたらされたのだ。  さて——。  デレンに、日本人が、出現したのは、前代未聞のことだった。  三姓《さんしん》からやって来た廬船《ろせん》には、清国上級官人として、魯《ろ》、葛《かつ》、舒《じょ》という三人のゴルジ族が乗っていたが、首にチョン髷《まげ》をのせ、大小の刀を佩《お》びた日本人が現れたときくや、多大の興味をもって、船へ招待した。  林蔵は、あるいは生命の危険もあるかと、疑いながら、招待に応じたが、意外にも、大層な歓迎ぶりに、面くらった。  林蔵の前には、あとからあとから、料理がはこばれ、四人の美しい娘が給仕をしてくれ、歌舞を見せた。  林蔵は、通訳のいないまま、漢文の筆談をこころみ、かなりいろいろと、意を通じることができた。  程よく酔うた林蔵は、やがて、魯という一番の年配者の前へ進んだ。  願いの筋があることを、紙にしたためてさし出すと、魯は、こころよく頷いた。  魯は、林蔵から手渡された例の「巌頭の美女」を、じっと瞶《みつ》めていたが、となりの同僚へ渡した。葛、舒らも、ていねいに眺めたが、何も云わなかった。  林蔵は、このような美女を一目でも見ることができるならば、死んでも悔いはない、と書いた。  魯は、この仮府に常駐している下級官人五名を呼び寄せた。 「おそらく、これは、ロシヤの娘であろう。お前たちは、デレンの周辺に住んでいるロシヤ人を知らぬか?」  魯は、問うた。  下級官人の一人が、こたえて、自分はこれと同じような美女の絵を壁にかけている家を知っている、と云った。  これが、つたえられると、林蔵は、目をかがやかした。 「案内をお願い申す」  林蔵は、両手を合せて、頭を下げてみせた。上級官人たちは、微笑していた。  その家は、デレンにあるのではなかった。さらに黒竜江を遡ること三日の行程のアデイにある、という。  林蔵は、切望した。  許可が下り、山靼船は、その下級官人と林蔵をのせて、デレンを出発した。  林蔵が、デレンから黒竜江を遡航《そこう》した事実は、今日北海道庁に収蔵されている「間宮林蔵満江分図書」という野帳にも、記されている。  しかし、その遡航が、他言をはばかる夢想の実現であった以上、林蔵がその真の目的を記録にのこす筈もなかった。  三日後、アデイの部落に至るや、林蔵は、下級官人の案内で、まっすぐに、その家を訪れた。  その家は、土人の聚落から、ぽつんと一軒だけはなれ、台地上に在った。  下級官人が、案内を乞うと、長身の老人が現れた。水干《すいかん》のような衣服をまとい、パイプをくわえていた。見事な口|髭《ひげ》をたくわえたロシヤ人であった。  下級官人が、何か云うと、老ロシヤ人は、無愛想な表情のまま、室内へ、訪問者二人を入れた。  林蔵の眼眸《がんぼう》は、すぐに、壁の一|箇処《かしょ》へ、注がれた。ロシヤの住宅をそのまま移したようなたたずまいであったが、林蔵の目には、他の調度は、一切入らなかった。  そこには、今日で謂《い》う三十号ばかりの盛装した婦人の肖像画が、かけてあった。  その姿容は、「巌頭の美女」にまさりこそすれ、いささかも劣るものではなかった。ゆたかな金髪、碧《あお》い双眸《そうぼう》、気品のある鼻梁《びりょう》、そして、その美しい口もとには、法隆寺金堂にある釈迦三尊像《しゃかさんそんぞう》のように、神秘《くしび》な微笑を湛《たた》えていた。  林蔵は、その美貌に、魅入《みい》られたように、まばたきもせずに、いつまでも瞶《みつ》めていた。  老ロシヤ人が、何か云った。  下級官人が、林蔵に、椅子をすすめた。ロシヤの酒が、その前の卓子に置かれた。  林蔵は、グラスを手に把《と》り乍らも、なお、その肖像画を、眺めつづけた。  酒が、火のような熱さで、のどを下ってから、林蔵は、われにかえったように、下級官人に向って、これは、現実の女性を写したものか、どうか、主人に訊《たず》ねて欲しいとたのんだ。  下級官人が、その質問をつたえると、老ロシヤ人は、はじめて、微笑して、奥へ向って、大声をかけた。  やや間があって、現われたのは、ぎょっとなるほど痩《や》せさらばえた老婆であった。白い頭髪をふりみだし、眼窩《がんか》は落ちくぼみ、鼻梁だけがいたずらに高く、皮膚は松の皮のようにかわいて皺《しわ》だらけであった。  老ロシヤ人は、老婆を示し、その人差指を肖像画へ移した。  林蔵は、茫然《ぼうぜん》自失した。  間宮林蔵が、デレンからさらに足をのばして、ロシヤ経界をきわめなかったのは、満州仮府の許可が得られなかったからに相違ない。もし、許可があったならば、林蔵は、その経界まで足をのばしたであろうし、あるいは、再び、日本へ還《かえ》らなかったかも知れぬ。  林蔵は、絶世の美女の肖像画と、その美女の老いさらばえた醜《みにく》い姿に接しただけで、むなしく、韃靼大陸からひきかえして来た。  八 「——というわけでな、間宮林蔵の一命を賭《と》した冒険は、その目的が判ってみると、むべなるかな、と納得できるところだ」  等々呂木神仙《とどろきしんせん》は、しきりに、大きな渋《しぶ》うちわで、むらがる蚊をはらい乍ら、にやにやした。  私も、この蚊の襲撃には、閉口して、はやく退散したいところであったが、多少意地になって、坐っていた。 「つまり、林蔵のその後の行動も、すべて、その目的を遂げんがためであった、と貴方は云いたいのですね」 「そうじゃとも!」  神仙は、大きく頷いてみせた。 「林蔵は、松前へ帰って来ると、北蝦夷図説、東靼地方紀行を著述した。里程紀も書いた。カラフト図も、つくった。もはやするべきことはなくなって、江戸へ帰って来た。その時、馴れない極寒《ごくかん》地ですごしたために、両手十指はのこらず、凍傷《とうしょう》にかかって、ひどいことになって居《お》った。にも拘《かかわ》らず、林蔵は、翌年には、またもや、江戸を出て、蝦夷へやって来ている。ふつうの奥地探検ならば、もう役目を果したのだし、いいかげんこりているのだから、もうまっぴらだ、と首を横に振るところだ。どうして、林蔵は、蝦夷へひきかえして来たかだ。林蔵が私淑《ししゅく》する伊能忠敬は、林蔵を、非常の人ありて後、非常の功あり、と賞讃しているが、忠敬自身も、林蔵の心の奥底は、看《み》破れなかったらしい。……林蔵が、蝦夷へ再びひきかえして来たのは、クナシリ島の守備隊が捕えたロシヤ軍艦ディアナ号の艦長ゴロヴィニン少佐を、その獄中に、訪《とぶろ》うためだったのだ。その目的は——もはや、云うまでもなかろう」  林蔵は、松前に到着するや、まっすぐに、牢獄を訪れて、ゴロヴィニン少佐に会見の許可をもとめた。  その名目は、天測量地法を伝授してもらいたい、ということであった。  ゴロヴィニン少佐は、「日本|幽囚記《ゆうしゅうき》」で、書いている。 『彼(間宮林蔵)は、自分の器具類を、われわれのところへ持って来た。例えば、イギリス製の銅の六分儀《ろくぶんぎ》、コムパスつきの古風な観測儀、作図用具、人工水準用の水銀など。林蔵は、この品々の使用法を教えて頂きたい、とたのんだ。しかし、それは、不可能なことであった。われわれの手|許《もと》には、必要な表もなく、天文カレンダーもなく、さらにいけないことには、係りの通詞《つうじ》たちと来たら、きわめて簡単な熟語ひとつも理解できないくらいロシヤ語の能力が不足していた。その旨《むね》を云うと、間宮林蔵は、非常に不|機嫌《きげん》になった』  しかし、林蔵は、それから、毎日のようにゴロヴィニン少佐を訪れて、さまざまの話の花を咲かせた、という。  少佐は、書いている。 『彼(林蔵)は、毎日通って来て、殆ど朝から晩までつめきりで、自分の旅行の話をしたり、彼が描く各地の要図や風景を見せた。それは、われわれにとって、きわめて、珍しいものであった。彼は、大旅行家としてみとめられていた。彼は、千島諸島中第十七島まで行き、サハリンへも行き、その上満洲領のアムール河にも往ったのである。彼の虚栄心は大したものであった。……この学者は、われわれの大敵となったが、四六時中議論をしたり、喧嘩をしたわけではなく、時には、いろいろな政治的問題について話をすることもあった』  ロシヤ語の下手くそな通詞を、かたわらから追いはらうために、林蔵は、毎日かよって少佐からロシヤ語を学んだのだ。しかし、林蔵は、天測量地法を教わりたいために、ロシヤ語を学ぼうとしたのではなかった。実は、ロシヤヘ行くという決意を、肚《はら》の底に秘めていたのだ。  ロシヤ語を学ぶために、林蔵は、しゃべりまくった。それが、時には大言壮語にきこえたり、傲慢《ごうまん》な態度にとられたのである。あらゆる事柄をしゃべって、対手《あいて》からその答えをきくことが、未知の国の言葉を知る捷径《しょうけい》だ、と林蔵は、考えたのだ。  その目的は、ロシヤヘ行くことだったのだ。  林蔵は、少佐に嗤《わら》われないために、肌身につけた「巌頭の美女」を見せることはしなかった。  ゴロヴィニン少佐は、高田屋嘉兵衛の斡旋《あっせん》もあって、リコルド海軍中佐に迎えられて、ディアナ号へかえり、祖国へ去った。  林蔵は、この軍艦へ、ひそかにもぐり込んで、密航を企てたのだが、林蔵の人柄を誤解した少佐が、これを拒否したため、果さなかった。もし、林蔵の真意を、少佐が知っていたならば、こころよく、つれて行ったに相違ない。  林蔵は、ディアナ号が去っても、なお、蝦夷にとどまった。文政五年まで、実に、十一年の長きにわたって、とどまった。林蔵は、ロシヤに渡る機会を、うかがいつづけたのだ。くりかえすが、まことに、林蔵の執念は、おそるべきものがあった。  ついに——その目的は、遂行《すいこう》できなかった。無念の泪《なみだ》をのんで、ロシヤ潜入をあきらめて、むなしく帰府した林蔵の心中は、測るにあまりある。  さて、その後半生は、転変し、公儀隠密《こうぎおんみつ》となったのだが、これは、一大探検家の名をはずかしめるものであると、後世非難された。  殊に、文政十一年秋、有名なシーボルト事件が起ったが、この事件の密告者として、林蔵は、当時の進歩的な連中から、烈《はげ》しく指弾された。  間宮林蔵を、世界的探検家として称揚する人々も、この点に関しては、釈然としないのが、常識となっている。  事件の中心人物となった高橋|景保《かげやす》は、幕府天文方をつとめ、寛政暦を完成して名を挙げた至時《よしとき》の長子として生れ、父と同じく天文方をつとめ、御書物奉行を兼ねた。当時の本邦科学者としての最高峯の地位にあった。  一方、シーボルトは、長崎出島のオランダ商館長の参府に随行して来たドイツ人学者だった。  前者は洋学研究、後者は日本研究に、精魂を傾けた人物だった。  たまたま、高橋景保は、シーボルトの所持していたクルーゼンシュテルンの「世界周航記」を、どうしても手に入れたかった。景保は、シーボルトにたのみ込み、その交換条件として、伊能忠敬の「大日本沿海|輿地《よち》全図」その他の貴重書を渡すことを約した。  このことが、間宮林蔵の密訴によって、発覚した。そのために、高橋景保は逮捕され、関係者数十人も投獄され、シーボルトは、長崎で厳重な尋問を受けた。景保は獄中で死に、連累者たちもそれぞれ、遠島、禁固、追放、改易の処分を蒙《こうむ》り、シーボルトは、国外追放の憂目に遭うた。  はたして、林蔵は、密告者であったか?  ちがう。林蔵は、そんなことはしなかった。林蔵は、実は、シーボルトに会って、西洋の美女像といったものが欲しい、と依頼していたのだ。文政十一年三月二十八日、高橋景保のもとに、長崎のシーボルトから一箇の荷物がとどいた。その中に、林蔵宛の荷物が入っていた。ところが、景保は、うっかりして、これを、自分宛のものとまちがえて、ひらいてみた。それは、すばらしい西洋婦人の肖像画であった。景保は、これを、自分の親しい勘定奉行に贈った。  これを、林蔵がきいて、烈火のごとく憤怒し、前後をわきまえずに、勘定奉行所へふみ込んで行き、その美女像を返してくれるように談判に及んだのだ。その談判がこじれて、高橋景保がシーボルトから送られた荷物の内容まで、調査されることになって、あの大事件になった。景保とシーボルトの密約のことなど、林蔵は、まるで知らなかったのだ。林蔵は、ひたすら、金髪の美女にめぐり会う夢想を抱きつづけていたにすぎぬ。  九  天保四年、間宮林蔵は、五十九歳になっていたが、自ら進んで公儀隠密役をひき受けた。  公儀隠密になれば、日本の辺境を歩くことができる。西洋船に近づき、それに乗り込んで、外国へ行くこともできる。林蔵は、そう考えたのだ。  当時の六十歳は、隠居の年齢である。花鳥風月を賞《め》で、点前《てまえ》を愉《たの》しんだり、神社仏閣巡りにのこりの日々をすごすことをねがうのが、ふつうであった。  林蔵は、その老齢に反逆して、生命に危険のあるスパイになったのだ。尋常一様の料簡《りょうけん》で、なれるものではない。  隠密となるや、林蔵は、長崎へおもむいた。出島オランダ商館の館員フィッセルに近づき、それとなく、海外密航の機会を与えられるように、匂わせた。しかし、すでに、オランダ商館には、間宮林蔵が幕府の犬となっている、という情報がもたらされていた。フィッセルは、極度に警戒して、林蔵の言葉を、まともに受けとろうとはしなかった。  シーボルト事件の密告者という汚名も、林蔵の立場をわるいものにしていた。  林蔵は、長崎を去ると、薩摩へ入った。  薩摩は、琉球《りゅうきゅう》を支配して居り、毎月一度、船を出している。その船に乗り込んで、琉球まで行けば、ヨーロッパヘ渡るチャンスもあろうか、と考えたのだ。  薩摩は、一切他国者を入れぬきびしい掟《おきて》をつくっていた。林蔵は、経師《きょうじ》に化けて、入国した。しかし、三年間ひそんだが、ついに、そのチャンスは得られなかった。  薩摩を去った林蔵は、石見《いわみ》の国へ移り、抜荷船を見張った。  その密貿易ぶりを探るのではなく、船へ乗せてもらう目的であった。  結果は、逆になり、浜田の今津屋八右衛門の密貿易を摘発することになった。  林蔵は、すでに、六十四歳になっていた。  弘化《こうか》元年——古稀《こき》を迎えた。林蔵は、元旦の夜、倒れて再び起たなかった。妻子を持たぬ林蔵には、看護人がいなかった。  りきという賄《まかな》い女をやとっていたが、倒れた時には、実家へ所用あって、出かけていた。  七草がすぎてから、戻って来たりきは、林蔵が死相をうかべて病臥《びょうが》しているのに、仰天《ぎょうてん》した。  りきは、林蔵が、天井の一点を瞶《みつ》めて、顔をみじんも動かさないのを疑って、天井を仰いだ。  天井板には、一枚の絵が貼《は》りつけてあった。  それは、手ずれ、垢《あか》じみ、殆ど判じがたくなる古び様であったが、なにやら、白衣をまとうた女らしい者が、岬らしい岩の上に立っている図であった。  林蔵は、それを、二月のあいだ、じっと瞶めつづけたのち、永遠に目蓋《まぶた》を閉じた。  純情薩摩隼人  一 「あんたの趣味は、なんじゃな?」  秋風が、枯葉を舞い込ませて来る座敷で、等々呂木神仙《とどろきしんせん》は、相変らずの浴衣一枚で、私の持参した安芸《あき》の銘酒を、|ひや《ヽヽ》で飲み乍ら、訊《たず》ねた。 「マスコミに対しては、ゴルフ、と云っていますが、実は、博奕《ばくち》ですな」 「結構! 飲む——は駄目らしいが、打つは、大いによろしい。で、買う、はどうかな?」 「人後に落ちるつもりはありませんが、最近は、こっちが爺《じじい》になったせいか、二十歳前後の娘の気持は、さっぱり分りませんな」 「どう分らんのじゃな?」 「たとえば、この夏、私の友人が、銀座の一流の酒場に行きました。なじみの店です。暑いから、当然、上衣を脱いで、ホステスに渡してしまった。夜更けて、帰宅して、気がついたら、封筒に入れておいた十万円が無くなっていた。この話をきいて、私は、上衣を脱がせたのは、二十歳前後の娘《こ》ではなかったか、と訊ねると、まさしくそうでした。私は、さっそく、その酒場へ出かけて行って——私もなじみの店です——、その娘《こ》を呼び、おい、Gさんから十万円抜いたろう、ときめつけました。すると、その娘は、どうしたと思います?」 「しらばっくれたかな、それともうなだれて、めそめそ泣き出したかな」 「どちらでもありませんね。けろりとして、Gさんの十万円なんて、あたしたちの百円ぐらいでしょう、痛くもかゆくもないはずよ、落したと思ってくれないかなあ。こうでしたな」 「ふうん!」 「つまり、悪事を犯した、という考えは毛頭《もうとう》みじんないのですよ。バレちゃった——で、ペろりと舌を出せばすむ、と思っていやがるんですよ。だから、上衣を脱がせられる時、おい抜くな、と叫んでおいてやればいいんですね。そう云われたからといって、すこしも侮辱感《ぶじょくかん》などおぼえやしないのです」 「あきれたものじゃな」 「私は、一度だけ、十九歳のホステスを連れて、連れ込みホテルに行ったことがありますがね、コトが終って、ネクタイをしめ乍ら、おい、いくらだ、と訊ねたのです。間髪《かんはつ》を入れず、三万! とこたえましたね」 「ドライで、いっそ、サバサバしていてよろしい、と云いたいのじゃろうが、どうも味気ないのう」 「女の方がそうなら、勢い対抗上、男の方も、割り切らざるを得ないようですな。こういう娘《こ》に惚《ほ》れたら負けですよ」 「ふうん。つまらん!」  神仙翁は、ぐいと、茶碗酒をあおってから、 「むかしを今にかえすよしもがな、か」 「そのむかしの、蕩児《とうじ》ではあったが、女に対する純粋な気持を死ぬまで失わなかった——そういう人物に、心当りはありませんか?」 「いたのう。なんぼでもいた」 「最も、代表的な人物のことを、話して頂きましょう」 「そうじゃな」  神仙翁は、ちょっと考えていたが、 「ひとつ、中村半次郎《なかむらはんじろう》の話をするか。のちの陸軍少将・桐野利秋《きりのとしあき》」  西郷隆盛|麾下《きか》は、誰でも知っている通り、薩摩隼人《さつまはやと》の大集団だから、生命を弊履《へいり》のごとく棄てて悔いぬ強者が、うじゃうじゃと居った。その中でも、一頭地を抜いていたのが、中村半次郎だな。  半次郎こそ、典型的な薩摩隼人だが、しかし、もし西郷隆盛がいなかったら、おそらく、世に出なかったろう。せいぜい、人斬り半次郎の異名《いみょう》をのこして、明治政府成立以前に、線香花火のように、消えたに相違ない。  つまり、同じ薩摩の剣客《けんかく》・田中新兵衛が、人斬り新兵衛でおわったようなものだったろう。新兵衛が、船頭上りという賤《いや》しさに劣等感をすてきれなかったせいばかりではない。そのバックが、土佐の武市半平太であったことが不運であった。武市個人は、鋭い洞察《どうさつ》力を備えた一流人物であったが、おのが才を恃《たの》んで、功を急ぎすぎるきらいがあった。器量としては、西郷隆盛に比べて、ひとまわり小さかった。  新兵衛といい、子飼いの岡田|以蔵《いぞう》といい、単なる人斬りでおわったのは、所詮《しょせん》、瑞山《ずいざん》のスケールの問題といえるのだな。半次郎が、血に飢《う》えた一匹狼でおわらなかったのは、やはり、西郷の感化によることは事実だ。尤《もっと》も、半次郎自身、新兵衛・以蔵とは、出来のちがう、純情なロマンチストで、水際《みずぎわ》立ったダンディーであったな。  第一、半次郎の美男ぶりが、ずば抜けていた。  切長な双眼の潤《うる》みをおびた、やや褐色《かっしょく》の瞳で一瞥《いちべつ》されると、たいがいの女が、ぽうっとなって、膝《ひざ》がしらから力が抜けた、という。なんとも申し分のない骨相で、上背はあり、着流しだろうと、裃《かみしも》姿だろうと、衣服の方から、まといついたあんばいだった、という。  気象は、青竹のように直《す》ぐで、しかも、立居《たちい》振舞いに、飄々乎《ひょうひょうこ》としたところがあった。  つまり、生れ乍らに、人を魅了《みりょう》する雰囲気《ふんいき》を身につけていたのだ。  二  天保《てんぽう》九年十二月、半次郎は、鹿児島城下からすこしはなれた、吉野村|実方《さねかた》に、中村与右衛門の三男として、生れた。父は、食祿五石、御小姓組下、という軽輩《けいはい》だった。  だから、半次郎は、昼は家族とともに田畠を耕し、夜は紙|漉《す》きの手伝いをし乍ら、育った。  しかし、十三歳になると、父与右衛門は、息子を、内職手伝いから解放して、 「剣を学べ」  と、命じた。  与右衛門は、ある日、畔道《あぜみち》を通っている折、まむしを発見した半次郎が、おそれ気もなく、それを足蹴《あしげ》にして空中へはねあげ、落ちて来るところを、携えた鎌で両断するのを眺め、天稟《てんぴん》を備えているとみとめたのだ。  城下西田橋近くに、伊集院《いじゅういん》道場があった。道場主伊集院鴨居は、古示現流の達者であった。示現流は、ふるくから、薩摩藩のお家芸であり、鹿児島藩士でこれまで学ばぬ者はなかった。  半次郎は、この伊集院道場へ入門した。  天稟を備えた半次郎にとって、好都合だったのは、示現流という流儀が、他流とちがい、道具をつけて対手《あいて》とパンパン摶《う》ち合う、いわゆる竹刀剣法でなかったことだ。  柞《ははそ》の木太刀一本で、横木打ちの独習をすれば足りた。  細い木をたくさん束ねたやつを、適当な高さに据えておいて、滅多打ちに打ちまくればよかったのだ。それの稽古を成しとげたら、今度は、立木打ちだ。もとより、横木打ちにしても、立木打ちにしても、その程度は、各々が、自得するよりすべはない。他人との技倆の比較はないのだ。  立木打ちとは、適当な長さの棒杭《ぼうぐい》を、地上に幾本もうち込んでおいて、それをかたっぱしから、撲《なぐ》りつけて、歩くのだ。要諦《ようたい》は、振りの迅速《じんそく》と、打ちの正確さだ。示現流の極意は、この二点につきる。  半次郎は、棒杭にあきたらず、家の周辺の樹木を、撲りつけてまわった。ために、中村家をとりまく林は、見るもむざんに、一本のこらず皮が剥《む》けてしまった。父与右衛門は一言も叱らず、家族たちも黙って、眺めていた。  吉野村実方は、さいわいに山間部に近い村だった。中村家からものの二町も歩けば、木立の深い山に入った。  半次郎は、やがて、山中へたて籠《こも》りはじめた。  早春の一日——。  伊集院道場の高弟三名が、その山へのぼった。木太刀にする柞《ははそ》の木を伐るためだった。  中腹にのぼった時、高弟らは、異様な光景に、目を疑った。  見わたす立木という立木が、のこらず、傷つき、枝を折られていた。そのうち数十本は、太さ三寸以上の幹を両断されていた。その斬り口は、刃物をふるったのではなく、撲《う》って撲って、撲ち折ったものと判断された。  ——何者の仕業か?  あきれはて乍ら、頂上へ登りついてみると、巨岩の上に、一人の少年が仰臥《ぎょうが》して、午睡をむさぼっていた。  道場のしんがり弟子中村半次郎であった。  かたわらには、傷だらけの木太刀が抛《ほう》り出されていた。呼び起した高弟らは、あの狼藉《ろうぜき》はお前のやったことか、と訊ねた。 「左様、おいが、一人道場でごわす」  半次郎は、微笑し乍ら、こたえた。 「太い幹を両断して居るが、あれもか?」 「この木剣で、斬り申した」  高弟らは、顔を見合せた。  半次郎は、ようやく元服したばかりである。この少年が、あれだけの凄《すさま》じい仕業をやってのけたとは、どうしても信じ難かった。  いずれも、二十代も半ばに達している高弟らは、城内の御前試合で優勝を争う腕前の所有者であったが、木太刀をふるって三寸の幹を両断してみせる自信はなかった。  六尺の長躯を持つ東屋《あずまや》某が、揶揄《やゆ》するような表情と口調で、 「おはん、まさに、天狗の申し子じゃのう。それほどの腕前なら、一手立合い申そうか」  と、云った。  半次郎は、対手を、ちょっと見上げていたが、黙って、首を下げた。  東屋は伐りとったばかりの柞《ははそ》の太枝を、脇差で、すばやく削って、手ごろのかたちにととのえた。  半次郎は傷だらけの得物を携《さ》げて、待った。 「参ろう!」  東屋は、生木にびゅんとすごい素振りをくれて、云った。  その膂力《りょりょく》をこめた素振りの唸りをきいただけで、尋常の者なら顔色を変えるところであったが、半次郎は、眉宇《びう》も動かさなかった。  東屋は、ぴたりと示現流独特の構えをとった。  東屋は、半次郎を一撃で、片端《かたわ》にする肚《はら》づもりだった。半次郎は、稀《まれ》に見る美少年である。薩摩には、稚児《ちご》趣味がつよい。師の伊集院鴨居に、半次郎を稚児にしたいという気配が見えていたのである。  どうせおれたちの稚児にできぬものなら、片端にしてしまえ。東屋には、その残忍な気持が起っていた。  稚児になるために生れて来たような半次郎が、意外にも、剣の天稟があり、ひそかに、一人修業を積んでいるということも、片腹痛かった、といえる。  大上段にふりかぶった東屋の姿には、対手を少年として扱わぬ凄じい殺気が、みなぎっていた。  示現流の構えは、上段・中段・下段の三段には分れていなかった。ただひとつ、大上段の右八相の構えがあるばかりだ。  ところが——。  東屋の大上段に対して、半次郎は、ただ、傷だらけの木太刀を、ダラリと前へ下げているばかりであった。地摺《じず》りの構えというのではなく、ただ、切先を地面へ落しているにすぎない。  どう看《み》ても、隙だらけの構えであった。  東屋は、これを、誘い、とは受けとらなかった。  反撃して来ない立木に対して、夢中で、一人稽古をしているから、構えを知らないのだ、と受けとった。 「やああっ!」  東屋は、まず、威嚇《いかく》の呶号《どごう》を発して、一歩詰めた。  半次郎は、動かぬ。ただ、わずかに、双眸を細めただけである。  東屋は、さらに、凄じい気合をあびせざま、間合《まあい》を詰めた。  六尺の巨躯《きょく》から放射している剣気に、半次郎は、たちまち、圧倒されて「参った!」と叫ぶもの、と東屋も他の二人も、予想していた。しかし、東屋は、容赦《ようしゃ》なく、撃ち据《す》える存念であった。  ところが——。  間合が成り、汐合がきわまった刹那《せつな》、半次郎が、すうっと、八相の構えに移るや、東屋は、思わず、 「むっ!」  と、呻《うめ》いた.  半次郎のからだに、魔性が憑《つ》いたように、その全身から、熱気のような反撥《はんぱつ》の鋭気が、ほとばしったのだ。  東屋は、一瞬、かるい眩暈《めまい》をおぼえ、その不覚に、かっとなった。 「ちえすとおっ!」  東屋は、満身からの気合をこめて、まっ向から、振りおろした。  ばあん!  木太刀と木刀の搏《う》ち合う鋭い音がひびいた。  瞬間——  東屋の両手から、木太刀ははなれて、空中高くはねあがった。  と、半次郎の口から、奇妙な叫びが噴いた。 「けけけけ……、とおっ!」  その叫びとともに、半次郎の木太刀は、東屋の左肩に撃ち込まれていた。  東屋は、膝を折り、それから、顔を仰向けて、 「あ、あ、あ……」  と、白痴じみた声をあげた。 「失礼をば、つかまつった」  半次郎は、木太刀を引くと、ていねいに一礼して、すたすたと山を下って行った。  三  それから二月あまり過ぎた某夜であった。  半次郎は、父から命じられた所用をたして、かなりおそく、城下から家路についていた。  自家の灯をむこうに見る畠の中の細|径《みち》を辿っている時、不意に、樹蔭《こかげ》から、黒い大きな影が、躍り出て来た。  星あかりに、それは、何かの化身のように巨《おお》きなものに見えた。  無言で、片手斬りに襲って来た。  その太刀風に、あおられたように、半次郎は、六尺を跳《と》び退《しさ》った。  二の太刀、三の太刀、つづけさまに、あびせかけられた。  半次郎は、正確な跳躍で、これを躱《かわ》しつづけた。  対手の攻撃が、止った時、半次郎は、覆面の蔭からほとばしる殺気を、受けとめ乍ら、 「闇討ちは、無駄でごわす」  と、言った。 「……」 「片手では、この半次郎は、斬れ申さぬ」 「黙れっ」  敵は、さらに、つづけさまに、斬りつけて来た。  半次郎は、脇差しか帯びていなかったが、それも抜こうとはしなかった。  跳び退りつづけていたが、とある一瞬、半次郎は、横あいの立木の蔭へ、けもののような敏捷《びんしょう》さで身をかくした。  敵は、振りおろす太刀を、宙で停めるいとまもなく、その立木へ、ざくっと斬り込んだ。  幹は、半分も斬れていなかった。 「その業《わざ》では、おいどんは斬れ申さぬ」  半次郎は、幹から刀身を抜きとろうとしてあせる敵へ、ひややかに言いざま、脇差を、抜いた。  次の瞬間、立木は、両断され、枝葉をざわめかし乍ら、敵の頭上へ、傾いた。  敵は、何か喚《わめ》きたてると、幹へ刀をのこして、闇の中へ遁れ去った。  半次郎は、ベつに追おうとはしなかった。  東屋某は、それきり、薩摩藩から逃散《ちょうさん》してしまった。  後年——。  半次郎が、桐野利秋となって、熊本|鎮台《ちんだい》司令官として、赴任して来た時、東屋は、なにくわぬ顔をして、半次郎の前へ、姿を現した。  半次郎は、しかし、こころよく、東屋を迎えた。  東屋の訪問の目的は、熊本の力士を、鹿児島へつれて行って、相撲《すもう》興行を催したい、ということだった。  桐野利秋の相撲好きを、知ってのことだった。  しかし、半次郎は、かぶりを振った。 「そりゃ、いかんごつ。武士が、小屋もんの真似はいかん。士道にはずれて居り申す」  東屋は、反対されても、執拗《しつよう》に食いさがった。  東屋は、この興行で儲けなければ、もはや、生活のすべを失ってしまっていた。  惨《みじ》めな告白をきいた半次郎は、 「そげんことなら、おいがおはんに、旅費をくれ申す。おはんを隻腕《かたうで》にしてしまった詫びのしるしじゃ」  そう言って、机の抽斗《ひきだし》から、封筒をとり出すと、東屋に与えた。  まだ封も切っていない、手にしたばかりの俸給袋であった。  中には、百円余の札が入っていた。現代なら、二十万に近い金額だ。  東屋は、床へ坐《すわ》り込むと、泪《なみだ》を流して、礼をのべた。  もし、半次郎に、不具にされなければ、維新の風運にも乗れた男であった。  それでも、半次郎の厚情に感じたのだろう、西南役には、馳せつけて、隆盛|麾下《きか》に入り、本営護士として闘い、城山に討死して、わずかに、薩摩隼人の面目を保ったそうな。  四  貧しい中村家の常食は、米麦ではなく、甘藷《かんしょ》だった。知人が訪れても、もてなすのは、もっぱら、甘藷だった。  その夕餉《ゆうげ》は、大笊《おおざる》に蒸した甘藷が山盛りにされ、それに味噌汁が副《そ》えられるだけだった。薩摩の軽輩《けいはい》の大半は、そういう粗食に堪《た》えていた。|いも《ヽヽ》ざむらいと呼ばれ乍ら、その貧しさに堪えていた。  隣家の住吉家も、|いも《ヽヽ》ざむらいだった。  その住吉家に、半次郎と同じ年齢《とし》の一人娘がいた。  お吉という娘は、いつも、半次郎を弟あつかいにしていた。勝気な、明るい娘だった。  某日——。  半次郎は、村祭に、近郷の村童《そんどう》を対手に相撲をとった。みな半次郎より三、四歳の年長だったにも拘《かかわ》らず、一人として、敵《かな》う者がいなかった。  くやしがった隣部落の悪童たちは、次の日、半次郎をあざむいて、磧《かわら》におびき出し、不意を襲って、四方からとびかかり、高小手にしばりあげて、流れへ抛《ほう》り込んだ。  秋の出水で、濁流となっていたので、半次郎は、したたかに水を呑んで、あやうく溺れ死にそうになったが、屈せず、死にもの狂いで、磧へ匍《は》いあがった。  匍いあがったとたん、気力が尽きて、ぶっ倒れた。  うすらさむい日だったので、濡れ鼠のまま倒れていると、悪寒が襲って来て、顫《ふる》えがとまらなくなった。  瘧《おこり》に罹《かか》ったように、がたがた顫えつづけるうちに、意識が遠のいた。  そこへ、お吉が駆けつけて来た。  お吉は、大急ぎで、半次郎のかたわらに、枯木をかき集めて、火を燃やしておいて、半次郎をまる裸にした。  そして、自分もすばやく衣類を脱ぎすてて、一糸まとわぬ全裸になると、半次郎の上へ、ぴったりと俯伏《うつぶ》せた。  頬から頬へ、胸から胸へ、腹から腹へ、腿《もも》から腿ヘ——少女のあつい体温が、冷えきった少年の肌へ、つたわった。  半次郎は、意識がよみがえり、自分がどういう状態に置かれているか、さとると、驚愕、羞恥で、また、気絶のふりをしてしまった。  中村家の者たちが、駆けつけた時も、まだお吉は、しっかりと、半次郎を抱きしめたままだった。  昏《く》れなずんだ磧の上に、焚火があかあかと照らし出され乍ら、少女と少年が、全裸で、しっかりとひとつになっている光景は、いっそ、美しい眺めであったのだな。  爾来《じらい》、両家では、半次郎とお吉の将来を、暗黙のうちに、みとめた。  半次郎が、山中にたて籠って、立木を撲《う》ちまくる剣技の独習をすることができたのも、実は、お吉がいたおかげであった。  お吉は、半次郎のために、ひそかに、上納米をごまかして、握飯をつくって、半次郎の許へはこんでやっていたのだ。半次郎は、独習を、他人に覗《のぞ》かれることを極度にきらったが、お吉だけは例外だった。  そのお吉が、たった三日のわずらいで、忽然と逝ったのは、お互いに十六歳になった春だった。  半次郎は、お吉の枕辺で、一刻以上も、号泣した。  まわりの人々は、半次郎が、お吉の、あとを追うのではあるまいか、と心配したくらいであった。  半次郎が、不意に哭《な》き止めて、ふらりと立ち上ると、おもてへ出て行くのを眺めた父与右衛門は、思わず、 「半次、どこへ参る?」  と、訊ねた。 「山へ参ります」 「山へ? 何しに?」 「剣を習いに——」  半次郎は、山へ入ると、六日間、還って来なかった。  半次郎は、六日間、泣き乍ら、立木を撲ちつづけたに相違ない。  山から降りて来た半次郎は、別人のごとく、無口な、孤独を好む人間になっていた。  半次郎にとって、お吉は、女神であり、姉であり、恋人であり、この世の女性を代表する存在であった。そのお吉を、死神の手に奪われた半次郎が、絶望状態に陥ったのは当然だろう。もし、半次郎に、剣がなかったならば、お吉のあとを追っていたと思われる。  半次郎にとって、忘れることのできない思い出があった。  盛夏、半次郎は、例の磧《かわら》で、ひとしきり素振りの稽古をしてから、流れへとび込み、竹槍で魚を突き刺すことに夢中になった。  ふと気がつくと、いつの間にか、お吉が現れて、焚火をおこし、握飯を焼いていた。  半次郎が、米の飯にありつけるのは、お吉との逢曳《あいびき》の折だけだった。  半次郎は、獲った魚を携《さ》げて、あがって来ると、それを串刺《くしざ》しにして、焼き乍ら、なかばとぼけ顔で、お吉に訊いた。 「お吉さんは、どげんわけで、おいば、大切にするのかのう?」  お吉は、こわばったきつい表情になると、 「バカ!」  と、にらんだ。 「教えてくれ申せ。お吉さんは、おいを、バカだとか阿呆《あほう》だとか、ののしり乍ら、大切にしてくれるちゅうのが、どうも、おいには、よう判らん」 「阿呆!」 「それ、みい。すぐ、阿呆、と云いよる」 「わたしはな、半次郎さんに、日本一の男になってもらいとうて、つくしとるのじゃ」 「おいは、日本一の男なんぞには、なれ申さん」 「なれる! バカ!」 「兵法が少々ばかり強うなっても、日本一にはなれ申さん」 「なれるのじゃ! きっとなれるのじゃ!」  お吉は、じれったげに、云いはった。 「そうかな」 「そうじゃ。半次郎さんのような者は、この薩摩にも、一人も居りはせん」 「買いかぶりじゃ」 「買いかぶりじゃない!……わたしが、そう信じとるのじゃから、自分でもその自信を持ちなされ」 「うん。……お吉さんは、おいの、どこが好きなのじゃ?」  半次郎は、何気なく、訊ねた。  すると、お吉は、半次郎の方がとまどうくらい、顔をあからめた。 「知らん、阿呆!」  云いすてるや、さっと立って、遠くへ走った。  遠くへ走ってから、くるりと向きなおると、声一杯はりあげて、 「半次郎さんのなにもかも、わたしは好き!」  と叫んだ。  そして、姿を消してしまった。  その日のことを、思い出すたびに、半次郎は、胸が熱くなり、目蓋《まぶた》が潤《うる》んだ。  後年、半次郎は、多くの女性を愛した。世間からは、好色漢とそしられたこともある。  われ乍ら、あきれるほど、慕い寄って来る女性を、半次郎は抱いた。  半次郎が、そうしたのは、お吉を喪《うしな》った時、生涯無妻、決して一人の女性を愛すまい、とおのれに誓ったからだった。  半次郎自身、すすんで、女性をくどいたことは一度もなかった。  女性の方が慕い寄って来るのを、こばまなかっただけである。  そして、その度に、半次郎は、はっきりと云った。おれは、お前を、十六歳の時に、喪った娘の身代りとして抱くのだ、と。  身代りはあくまで、身代りであり、お吉の再来とはならなかった。  いわば、半次郎の女性観は、お吉の想い出から、生涯一歩も前進しなかったわけだ。  おのが一生の伴侶《はんりょ》として年老いるまでかたわらにいるものと信じ込んでいたお吉が、忽然として、この世から消え去ったことは、半次郎の脳裡《のうり》に、女性とは、そのように儚《はかな》く、あわれなものという固定観念を植えつけてしまったあんばいだ。したがって、お吉の身代りとして抱いた女性は、次つぎと、おのが目の前から消えてくれなければならなかった。  その限りに於て、半次郎は、女性を、全身全霊で愛した。  次のような話が、のこっている。  あるとき、半次郎は、一人の女と同衾《どうきん》していた。そこへ、佐幕派《さばくは》の刺客三人が、襲って来た。  半次郎と知って襲って来たのだから、いずれも相当の使い手だった。  半次郎は、しかし、お吉の霊に誓って、酒を一滴もたしなまぬ男であったから、泥酔《でいすい》の不覚はなかった。  すぐに、その気配をさとると、枕辺の刀を把るがはやいか、障子戸に体当りをくれて、庭へとび出そうとして、縁側まで出た。  気がつくと、同衾していた女が、腰が抜けて、生きた心地もなく、牀《とこ》から匍いずり出ようとしている惨めな姿をみせている。  たかが、金で求めた、料亭の女中であるから、すてておいても、さしつかえはなかったが、その姿をみとめるや、半次郎は、とっさに、室内へ、馳せ戻った。  女の方は、自分をかばうために半次郎が遁走《とんそう》を中止したと知るや、気力をとりもどして、抜けていた腰が立った。  女は、半ば無意識で、いきなり、火桶の灰を、両手でわし掴《づか》みにするや、肉薄して来る刺客たちめがけて、投げつけた。  濛《もう》と舞い立つ灰かぐらの中で、半次郎は、忽ち、二人を斬り伏せ、一人を手負わせた。  その手負いの奴を捕えようとして、遁れかかるのを縁側まで追った。  すると、縁の下から、伏せていた新手二人が、とび出して来て、矢庭に、遁れようとする手負いを、斬った。  味方を半次郎とまちがえて、同士討ちをやった。  もし、半次郎が、女をすてて、庭へ跳んでいたら、縁の下に待伏せた敵二人のために斬られていたろう。  半次郎の遊蕩《ゆうとう》の度がすぎる、という非難の声があがった時、西郷隆盛は、笑って云った。 「半次郎どんが女子を抱くのは、遊蕩ではごわさん。女子を愛《いと》しんで居るのじゃ。申さば、女人遍路じゃの。よかよか」  五  文久二年四月。島津久光が、上洛《じょうらく》した。中村半次郎は、えらばれて、護衛隊士として、随行した。  この時、伏見寺田屋に於て、激派の有志に、大弾圧を加える、という同藩同志|殺戮《さつりく》の惨劇が演じられた。  久光の意志は、もともと、尊皇《そんのう》倒幕ではなく、公武周旋にあったのだ。そして、激派弾圧ののち、京師《けいし》から江戸へ下った。  半次郎は、幸か不幸か、この江戸下りの供揃いからはずされて、京にとどまった。もし、半次郎が、江戸へ随行していたら、例の生麦事件に首を突っ込んだかも知れぬ。  京にのこった半次郎の任務は、乾《いぬい》御門と近衛御殿の警備であった。  同じ薩摩藩の使い手である田中新兵衛が、土佐の武市半平太と義兄弟の盃をかわし、岡田以蔵と組んで、暗殺専業者として、活躍したのは、恰度この頃だが、半次郎の方は、全くの鳴かず飛ばずであった。  腰間の剣を使わず、もっぱら、股間の剣の方を使っていた模様だ。  水際立った男っぷりと飄々乎《ひょうひょうこ》とした態度が、大いに京女にもてたのだな。もてることによって、ますます男っぷりがあがり、半次郎の居るところ、必ず美女が、影の形に添うた。  半次郎の存在が、激派中で目立ちはじめたのは、人斬り新兵衛の異名をとった田中新兵衛が、朔平《さくへい》門外事変で、謎の死を遂げた頃からだ。  というのは、師と仰ぐ西郷隆盛が、ようやく許されて、江良部島から還《かえ》り、上洛して来て、時局収拾に乗り出して来たからだ。  元治《げんじ》元年の春だった。  にわかに、半次郎の行動がせわしいものになった。渠《かれ》は、西郷の飛耳長目《ひじちょうもく》となったのだ。勿論、西郷は、半次郎のたづなを、しっかと把っている。いつ、どこで、どういうきっかけで、暴走するか、予測しがたい青年で、半次郎は、あったのだ。  西郷は、半次郎を愛していた。稚児趣味の熾《さか》んな薩摩に於いては、西郷もまた例外ではなく、半次郎の美男ぶりに心を惹《ひ》かれていたし、同時に、その気象、才智、剣の天稟《てんぴん》を高く買っていたのだ。  半次郎が、西郷から与えられた使命は、なかなか重大なものだった。  当時、薩摩藩は、久光の意志によって、公武合体論が主流を占めていた。そのために、長州藩の激派とは、ことごとに対立状態にあった。そこに、西郷・大久保らの苦慮があったわけだ。半次郎は、西郷の密命によって、しばしば長州の藩情を偵察のため、馬関までおもむいている。半次郎は、その頃、名目上は、脱藩者になっていた。歴史にはあらわれていないが、西郷と桂小五郎との連絡はしきりに行われ、その連絡係として、半次郎が起用されていたのである。  さらに、同じ頃——。  半次郎は、西郷の指令によって、美濃《みの》の美江寺の宿に、水戸|天狗《てんぐ》党の西上軍を迎え、藤田小四郎らに会い、進言している。  半次郎は、小四郎に向って、東海道筋をとって、京へ直行することを、すすめたのだ。  しかし、小四郎らは、長州兵の蛤御門《はまぐりごもん》の失敗を前例にし、どうしても、その進言を容れようとしなかった。  そして、そのまま、無理なコースをえらんで、雪の山路を突破して、越前から敦賀へ出、ついに、葉原《はんばら》宿で、加賀の軍門に下った。その悲惨な末路は、すでに、「水戸天狗党」で、述べた通りだ。  後年、半次郎は、西南役で敗走し乍ら、天狗党の悲惨を想起したに相違ない。  六  さて——。  ここらあたりで、半次郎の面目たる剣の業《わざ》について、述べておこう。  半次郎の告白によれば、斬った人間の数は、西南役を除いても、四十人を上まわった。  但し、対手の名は、殆《ほとん》ど不明のままでおわった。殺し専門の岡田以蔵や田中新兵衛とちがって、半次郎の場合、渠《かれ》自身刺客となって、特定の人間をつけ狙って、襲撃したわけではなかった。尤も、大久保利通と桂小五郎の態度を憤って、その生命を狙ったことは、一度ずつあったが、いずれも、対手の人格に服して、ひきさがっている。  半次郎の述懐に、桐野利秋となってから、夢寐《むび》のなかに怨霊《おんりょう》が出現して、しばしば自分をなやまし、そのうなされかたの凄《すさま》じさに、傍に寝ていた女性たちが、戦慄した、というから、斬った頭数は相当なものだった、と推測される。  半次郎の迅業《はやわざ》は、薩摩では後世になるにつれて伝説めいて来たほど、抜群のものであった。  抜きはなって、対峙《たいじ》するや、汐合がきわまるとともに、半次郎の口から、 「けけけけ……」  と、夜鳥《やちょう》の啼《な》くにも似た狂声が、発しられた。  次いで、 「ちえすとおっ!」  その懸声《かけごえ》とともに、敵を、脳天から真二つに、あるいは、袈裟《けさ》がけに、斬り下げてしまっていた。  しかし、半次郎の得意とする迅業は、汐合きわまって一撃|一閃裡《いっせんり》に敵を仆《たお》すのではなく、抜きつけの居合斬りであった。  半次郎は、主君久光の面前で、その抜きつけの迅業を披露したことがある。  一本の柳の木に相対すや、心機を一如のものとする時間も置かずに、鞘走らせざま、枝を両断した。  その枝は、宙に躍って、しばらくは、地に落ちなかった。半次郎がふるう白刃の舞いを受けて、その葉だけを、ひらひらと乱れ散らせたからである。  地に落ちた時、枝は、殆どまるはだかになっていた。  のみならず——。  八方へ乱れ散った葉は、ことごとく両断されていたのである。佐々木小次郎の燕《つばめ》返しも顔負けするほどの手練であった。  薩摩のお家芸示現流の凄《すさま》じさは、幕府方を、全く辟易《へきえき》させたものだった。京都取締の与力・同心も、示現流の前には、手も足も出なかった。  薩摩藩士は、新刀を得ると、必ず試斬りをやった。いわゆる辻斬りだが、袈裟がけの見事な一太刀ならば、みな薩摩藩士のしわざ、と目されたものだった。その示現流の中で、半次郎の迅業が、ひときわ抜きん出ていたのだ。  半次郎が京洛で斬ったのは、その半数は、路上に於ける抜きつけの一颯《いっさつ》の刃風の下だった。  対手と行き交いざま、足も止めず、身構えもせず、ただの一太刀で、血煙りをあげさせていた。  斬ろうと、殺意をひそめて近づいて来たのは対手の方であり、当然、対手の方がさきに抜刀して、あびせかけて来るべきであったにも拘《かかわ》らず、  ——刺客だな。  と察知した半次郎の方が、抜くのが迅く、対手は、殆ど例外なく、柄《つか》へ手をかけたままか、抜いてもわずか三、四寸ぐらいのもので、あえなく血煙りを噴かせていた。  明治元年正月三日——。  伏見・鳥羽《とば》の戦いでは、半次郎は、永山弥一郎とともに、隊の先頭をきって、幕軍陣営へ突入し、その居合斬りで、幕兵の首を、腕を刎《は》ね、あるいは真っ向|唐竹《からたけ》割りに、あるいは袈裟がけに、斬り伏せて、殆ど独力で、その前衛隊を潰走《かいそう》せしめた観があった。  半次郎は、突入した時は、両手をだらりと下げて、飄々《ひょうひょう》たる足どりであった。  幕兵が、 「こやつ!」  と、呶号《どごう》するのと、抜きつけの一太刀をあびせるのが、同時だった。  半次郎は、敵が退くと、白刃をぬぐって、鞘《さや》に納めておいて、ゆっくりと、前進した。そして、敵にとびかからせておいて、抜く手をみせずに斬った。なにやら、斬ることを愉しんでいるけしきに見えた。敵方にとって、こんな無気味な対手はいなかった。  半次郎は、この戦功によって、小隊小頭見習いとなった。  つづいて、二月十二日には、徳川|慶喜《よしのぶ》追討軍東海道先鋒隊に加わって、京師を発した。  この時も、薩藩一番小隊の監察として、常に、先頭をきった。  慶喜の謹慎、輪王寺家《りんのうじけ》の斡旋、家茂《いえもち》夫人・静寛院《せいかんいん》宮の歎願、さらには、西郷隆盛・勝海舟の一代の肚芸《はらげい》などがあって、江戸は、兵火からまぬがれた。  江戸に入った半次郎は、幕軍の敗走兵が、市川、船橋方面に屯集して、追討軍に反撃をこころみようとしているのをきき、一番小隊を率いて、出動した。  その闘いぶりは、伏見鳥羽の戦いと同じ無気味なもので、幕兵勢をして、戦慄せしめた。  半次郎は、敵を五井宿まで追いつめて、潰走させた。やがて一転して、房総方面の残敵を掃討しておいて、船航《せんこう》して、帰府した。  常に先頭をきって進む半次郎に対して、敵陣からの狙《ねら》い撃ちがあったのは当然だが、まるで神の庇護でも蒙っているように、弾丸はことごとく、半次郎の身からは、それた。  五月十五日に至り、上野にたて籠っていた彰義隊《しょうぎたい》が、にわかに、不穏の気勢を示した。  半次郎は、一番小隊を引具して、敵軍正面隊の守る黒門口へ進んだ。  すでに「上野彰義隊」で述べた通り、直参《じきさん》の面々の反抗ぶりは凄じかった。  追討軍は、兵を散らして、各所から攻撃したが、いっかな埒《らち》があかなかった。  業《ごう》をにやした半次郎は、単身敵前へ躍り出るや、愛刀を頭上に直立させつつ、突撃を敢行した。充分狙い撃ちができる至近距離に、半次郎が入ってくるのをみとめ乍らも、これに、弾丸を撃ち込んだ者がいなかったのは、まことにふしぎである。  半次郎の無気味な突撃に、直参たちは、黒門口を明け渡した。  半次郎の行手を、さえぎった者たちは、のこらず、一太刀で斬り下げられた。  七  彰義隊が全滅したその宵《よい》のことだった。  半次郎は、一番小隊の監察・河野四郎右衛門を伴って、神田三河町の屯所を出て、吉原へ向った。  昼間の戦塵《せんじん》は、出がけに、桶水をあびて流したとはいえ、なお肌にこびりついた血汐がなまぐさく、いかにも気持がわるかった。  半次郎は、人一倍|潔癖《けっぺき》で、朝きかえた襦袢《じゅばん》は夕方にはすてるくらいであったので、途中で湯屋を見かけると、河野をさそって、ひと風呂あびることにした。  ざくろ口を出て、黒|羅紗《らしゃ》の戎服《じゅうふく》をまとい、佩刀《はいとう》を手にした折、二階からゆっくりと降りて来た客がいた。講武所風の髷《まげ》をむすんだ、一見して直参と判る武士であった。  湯屋の二階は、遊冶郎《ゆうやろう》の休憩所になっている。武士は、そこで午寝でもしていたのであろう、降りて来て、じろりと、半次郎たちへ、鋭い一瞥《いちべつ》をくれておいて、さきに、表へ出て行った。  河野が、その後姿を見送って、 「あやつ、くさい」  と云ったが、半次郎は、まるで気にもかけぬ態度で、 「仙石楼《せんごくろう》の小歌は、たしか、今日が年期明けゆえ、最後の客になって欲しい、と申して居った」  と、微笑していた。  昌平橋にさしかかった時、欄干《らんかん》に凭《もた》れて、水面へ視線を落している武士がいたが、河野が、それをみとめて、 「……」  無言裡《むごんり》に、半次郎に合図しようとした。  半次郎は、気がついているのかいないのか、小唄を口ずさんでいた。   春雨のはれておぼろに月のさす   粋《いき》な桜の色よりも、   微酔《ほろよい》ざめの仲の町   ひとふさ欲しき花の露  半次郎が唄いおわるのと、欄干ぎわから、大きく身を躍らせた武士が、眉を焼くような白刃の一閃を、半次郎に送りつけて来るのが、同時だった。  刹那《せつな》——。  半次郎は、斜横《ななめよこ》に、一間余を奔《はし》った。  すでに、その片手には、抜きつけの刀が光っていた。  武士は、よろめいて、欄干まで退った。  半次郎は、示現流の構えになって、敵に肉薄し、 「けけけ……、ちえすとおっ!」  と、懸声もろとも、まっ向から、撃ちおろした。  これを、ひっぱずして、横薙《よこな》ぎの迅業へ継続させた敵の腕前も非凡だった。  半次郎の戎服の胸のあたりが、口をひらいた。 「できる!」  半次郎は、強敵に出会った喜悦の色を、その表情にも声音にも示した。  敵はすでに、肩口にかなりの傷を負うていたが、その青眼の構えに、みじんの崩れもみせていなかった。  半次郎が、そのまま、撃ち込むのを止めて、動かなかったのは、生命をすてる覚悟をきめた敵の悽愴の鬼気を受けたからであった。 「おはん——勝負あったのだぞ。引かぬか。ひとつしかない生命を惜しみんしゃい」  半次郎は、切先を天に刺し乍ら、云った。  瞬間——。  敵は、満身からの気合を噴かせて、斬り込んで来た。  半次郎は、懸声を発するいとまもなく、これを受けて、振りおろした。  敵の眉間《みけん》から、血飛沫《ちしぶき》が、ぱっと散った、とみた次の刹那には、そのからだは、大きく反って、欄干のむこうへ消えていた。  高い水音をききながら、半次郎は、 「生命びろいじゃ」  と笑って、手拭いをとり出すと、口で裂いた。半次郎の左手の薬指は、切断されていたのである。  半次郎を襲った刺客は、剣名高い鈴木隼人であった。渠《かれ》の抜き撃ちの飛電《ひでん》は、比類ないものという評判だったのだ。  吉原江戸町で、三日間の流連《いつづけ》をやったのち、半次郎は、一番小隊を引具して、奥羽へ向かった。  六月七日、白河に到着。  白河口の小ぜりあいののち、征討軍は、八月二日、二本松に侵入、会津若松城を攻略した。  このくだりは、すでに、「会津|白虎隊《びゃっこたい》」で述べたから、ここでは、くりかえすまい。  攻防激闘一月余、ついに会津は落城した。  その日、半次郎は、参謀伊知地正治の命によって、城受取りの使者となった。  その時の半次郎の態度、処理の見事さは、当時の語り草になった、という。  半次郎は、武に於ては卓抜の才能を発揮したが、学問の方はあまり好きでなく、したがって、軍使などのつとまる知識のたくわえなどなかった。  実は、この城受取りの作法は、渠《かれ》が、出府して、退屈まぎれにかよった芝愛宕下での講釈場《こうしゃくば》できいた大石良雄赤穂開城の一席を、そっくりそのまま、真似たものだったのだ。  江戸時代の講釈場は、庶民が教養を仕入れる場所であった、といえる。「三国志」で権謀術数を、「お家騒動」で忠義を、「因果《いんが》もの」で倫理観を、「世話もの」で義理人情を学んで、庶民たちは、おのがくらしぶりに、秩序をつくったものだ。  半次郎が、赤穂城受取りを、会津城でそっくりとそのまま、演じたとしても、これは、嗤《わら》うべき振舞いというには当らぬ。目で読むのを、耳できいただけのことで、当時の講釈師は、現代の大学教師などよりはるかに、学があった。  九月二十四日、半次郎は、江戸に還り、その年十一月、薩摩へ凱旋した。奥羽転戦の功によって、賞典祿《しょうてんろく》二百石を得、鹿児島常備隊の大隊長となった。  明治四年、あらたに親兵隊が組織されるや、半次郎は、一大隊を率いて東上した。その際、半次郎は、桐野利秋と改名した。  翌五年、北海道を視察、屯田兵組織による北門警備を、要路に進言した。この年、陸軍少将に任じ、熊本に下って、鎮台《ちんだい》司令官になった。四月、再び東京へ呼びもどされ、陸軍裁判所長となった。  折花攀柳《せっかはんりゅう》を愛し、柳橋に流連して、そこから裁判所にかよった。柳橋の芸妓《げいぎ》は、こぞって、半次郎に、傍惚《おかぼ》れした。  妻をめとらず、十六歳の時に喪《うしな》ったお吉の想い出を心に秘めた半次郎の飄々乎たる態度は、芸妓連中の母性本能をそそったに相違ない。  稀代《きだい》の兵法者であり乍ら、半次郎は、その姿容からは、みじんも、殺伐の気色をうかがわせなかった。  柄のこまかな薩摩絣《さつまがすり》を着流し、細身のステッキを携え、懐中には、西洋香水をしみ込ませた手巾《しゅきん》を容れていた。  他の官吏が、芸妓に、半次郎のどこに惹《ひ》かれるのか、と訊《たず》ねると、彼女たちのこたえは、ほぼ同じだった。 「陽気にお騒ぎになっている時と、一人きりになっておいでの時が、まるで別人のように見えます。あたりに誰もいなくなった時、そのお顔に、なんともいえないさびしい色をうかべておいでなのです」  孤独になった時、半次郎の脳裡《のうり》では、必ずお吉の俤《おもかげ》が偲《しの》ばれていたのだ。  故郷の磧《かわら》の上で、凍った自分の肌を、火のようにあつい柔肌《やわはだ》であたためてくれたお吉の、その柔肌の感触が、まざまざとよみがえって来て、半次郎は、胸が疼《うず》きはじめるのだ。  ——お吉は、どうして、自分をのこして、逝《い》ってしまったのか……。  この素朴な疑問が、折にふれては、胸で呟《つぶや》かれつづけていたのである。  これだけ多勢の女たちが、生きのびて、大人になり、妻になって、子供をつくっているのに、あのお吉だけは、わずか十六歳で、処女のままに、この世を去ってしまった。このことが、半次郎には、どうしても、合点がいかなかった。  この世で、自分の妻になり、自分の子を産み、自分の死までを見とどけてくれる唯一の女性が、お吉であったのだ。そのお吉が、どうして、それをはたさずに、逝ってしまったのか。  半次郎は、考えていると、気が狂い出しそうに、烈しい怒りに駆られて来たものだった。  八  半次郎の江戸邸は、湯島の切通し坂に面した宏壮《こうそう》な構えだった。元の榊原式部大輔《さかきばらしきぶたゆう》の上屋敷だ。それを官から払い下げてもらった。  しかし、半次郎は、そこには殆ど寝なかった。留守番には、鹿児島から呼んだ書生をあてていたが、一人や二人ではなく、常時十人あまりがいた。半次郎は、もっぱら、そこから一町ばかりはなれた妾宅で起居していた。妾は、おすまという気だてのいい女であった。器量はさほどわるくなかったが、右頬に赤痣《あかあざ》があった。岐阜の料亭で、下働きをしていたのを、なんとなく、江戸へつれて来たのである。  まわりの者が、なにもえらぶにことかいて、みにくい痣のある女など、妾にせずともよかろう、と云うと、半次郎は、笑って、 「おいは、百万人に一人の色男ゆえ、女房代りの妾には、やはり百万人に一人の貌《かお》ば持った女子をえらぶのでごわす」  と、こたえた、という。  半次郎は、この妾宅には、知己の来訪もことわった。  半次郎は、書物をひもとく時間を持たなかった。そのかわり、床の間の刀架けから、愛刀を把って、鞘《さや》を払い、およそ半刻も、じっと瞶《みつ》めているならわしをつづけていた。  おすまは、半次郎がよほど白刃が好きなのだ、と思い、薩摩隼人は心がけがちがうもの、と遠くから敬意の念で、見まもったことだった。  ちがっていた。半次郎は、ただ無心に、白刃の美しさ、鋭さに、見惚れているのではなかった。  たしかに、半次郎の愛刀は、逸品《いっぴん》だった。山城国《やましろのくに》の住人、綾小路定利《あやこうじさだとし》が打ちあげた古刀であった。定利は、綾小路派刀匠の祖であり、文永年間に比肩をゆるさなかった名人である。  反《そ》りが強く、鎬《しのぎ》の厚い、見るからに豪剣《ごうけん》であった。半次郎は、これを手に入れた時、これこそ、わが生涯にめぐり逢うべき運命を持っていた刀だ、と歓喜したものであった。半次郎は、その鞘をすべて銀装にし、その上に金線をひき、鍔《つば》には金銀細工をほどこした。さらに、柄がしらも鐺《こじり》も金象嵌《きんぞうがん》で飾った。  しかし、閑暇《ひま》があると、これに見入るのは、白刃自身の美しさを堪能《たんのう》するためではなかった。  半次郎は、冷たい秋霜《しゅうそう》の中に、お吉の俤《おもかげ》を描いていたのだ。  なぜ、定利の中に、お吉の俤がうかぶのか、半次郎には判らなかった。他の刀の中には、決してお吉の俤はうかばなかったのである。  定利をわがものにして間もなく、手入れをしている時、思いもかけず、お吉のすがたが、ぼうっとうかんで来たのである。  半次郎は、胸を躍らせて、その俤を凝視した。錯覚ではない証拠に、お吉は、すぐに消えなかった。半次郎の眼眸《がんぼう》を受けて、微笑んでさえみせた。  爾来《じらい》、半次郎は、お吉に逢いたくなると、鞘をはらって、刀身を直立させた。すると、それにこたえて、お吉は現れてくれたのである。  半次郎にとって、定利は、片時もそばからはなせぬ伴侶となった。  次のような逸話がのこっている。  ある日——。  半次郎は、回向院《えこういん》へ相撲見物に出かけた。回向院は、人も知るように、無縁仏の供養寺として、江戸名物のひとつだった。尤も、回向院といっても、江戸には二箇所あった。ひとつは、千住小塚原の回向院。これは、もっぱら死罪人の回向のためにつくられたものだ。いまひとつは、両国の回向院。この方は、江戸名物の火事や地震で死んだ無縁仏の供養寺だ。ここに、相撲の常設小屋があった。  半次郎は、相撲が無類に好きだった。その日も、夢中になって、見物していた。  すると、左脇に置いた愛刀定利が、こつこつと鳴った。妙だと思って、ふりかえると、桝《ます》からはみ出た愛刀の鞘を、うしろの桝の小柄な男が、煙管《キセル》の雁首《がんくび》で叩《たた》いているのだった。灰吹き代りにしたのだ。  ——こやつ!  半次郎は、激怒したが、二十代とちがって、すぐそれを爆発させはしなかった。  次の勝負がおわった時、半次郎は、やおら、腰から煙草入れを抜きとって、一服吸いつけた。それから、おもむろに、うしろへ向きなおって、煙管をさしのべて、その吸殻を、小男の月代《さかやき》の上へ、ぽんと落した。まだ、あかあかと火がついているやつだった。たちまち、髪毛の焼ける臭気が立った。  しかし、小男は、平然として、そ知らぬふりをしている。  半次郎の方が、いささか呆れた。小気味のいい奴だ、と思った。 「おい、お前は、破落戸《ごろつき》か?」  半次郎が訊ねると、小男は、はじめて、その視線を受けとめて、にやっとした。 「人に素姓を問うなら、自分から名乗りなされ」 「おお、そうだな、おいは、薩摩の桐野利秋じゃ」 「やっぱりの……、人を多勢斬りなすった中村半次郎先生でしたかい。あっしゃ、会津の小鉄でさあ。先生がた官軍にゃ、会津の者は、恨みがあるので、喧嘩を売るつもりだったが、先生には、貫祿負けをしたわい」  それから、二人は、相携えて、浅草の酒楼へおもむき、二昼夜痛飲した。  いや、痛飲したのは、小鉄の方で、半次郎の方は一滴も飲まずに、それにずっと、つきあった。  九  明治六年十月二十四日、西郷隆盛は、参議兼近衛|都督《ととく》を免じられた。  この報は、近衛の将校らにとって、一大衝撃だった。一時に、百余名が辞職願いを提出した。  同時に、征韓派《せいかんは》であった板垣退助、後藤象二郎、副島種臣《そえじまたねおみ》、江藤新平らも、そろって、辞職した。  二十八日には、西郷はすでに、品川から汽船に乗って、東京をはなれた。  その日の夕刻、半次郎は、妾宅に立ち寄った。  馬を、玄関へ乗りつけて、降りもせずに、おすまを呼んだ。  何事だろうと、おどろいて、出て来たおすまに、半次郎は、馬上から、 「おいは、これから、国許へ帰る。再び会えんかも知れぬ。……餞別に、これをやる」  と、云って、一振の短刀を投げ与えた。  茫然となっているおすまへ、 「さらばだ。……からだをいとえ」  云いのこしざま、馬首をめぐらすや、疾駆して、たちまち見えなくなった。  明治十年二月十五日(旧暦正月元旦)の西郷挙兵のことは、誰でも知っているから、省略する。  ここでは、城山|籠城《ろうじょう》をかんたんに述べておく。  西郷軍が、ついに熊本城を抜けず、敗走をかさね、ようやく政府軍の囲みを破って血路をひらき、鹿児島へ還って、城山に拠《よ》ったのは、九月一日。  鹿児島を出陣して以来、百九十九日ぶりのことだった。その出陣に当っては、二万をかぞえた兵力も、いまは、新手の参加者を加えても、わずか四百に満たなかった。そのうち壮者は三百に足らず、武器も小銃が百五十余挺、砲若干にすぎなかった。  城山の各処に穴を掘って、惨めなもぐら生活になった。  政府軍は、ぞくぞくと鹿児島に押し寄せた。  山県参謀は、九月二十四日を期して、城山総攻撃を指令し、その前に、最後の降伏勧告状を送った。当然、西郷方は、これを蹴った。  二十三日の夜、城山に於ては、徹宵《てっしょう》の酒宴がはられた。空は晴れ、中秋の月が冴えわたり、人生最後の夜の条件はそろっていた。  明けて二十四日払暁、総攻撃の合図が、私学校のあたりで、銃声をもって、包囲軍に告げられた。  その夜明けは、霧が巻いていたが、岩崎谷の狭い谷間が、浮かびあがり、朝陽がさし込む頃、大砲の音が轟《とどろ》きはじめた。  洞窟を出た西郷は、洞門口に整列した桐野利秋(中村半次郎)、村田新八、別府晋介、逸見十郎太《へんみじゅうろうた》ら四十数名を視《み》た。  西郷は、何も云わず、ただ、一同に頷《うなず》いただけで、ゆるぎ出すように、前線へ向って、その巨体をはこびはじめた。別府、逸見がそのあとにつづいた。  半次郎は、その後姿を、じっと見送ったが、涙はこぼさなかった。  やがて、渠《かれ》もまた、死場所を求めて、しずかな足どりで歩き出した。  西郷が、腹部と太股に貫通銃創を蒙って動けなくなり、別府が振りあげた太刀の下へ、頭をさしのべた頃——。  半次郎は、ただ一人、最前線の孤塁に拠って、迫り寄る敵勢に、狙撃をつづけていた。 「それ、当ったぞ!」 「また、一人片づけた!」  半次郎は、一発撃つ毎に、叫びをあげていた。まるで、射的を愉しむようであった。  しかし、もはや、前面は、敵影で掩《おお》いつくされていた。  いつの間に肉薄したか、敵兵の一人が、堡塁上に躍りあがって、半次郎めがけて、銃剣を突きたてようとした。 「けけけ……、ちえすとおっ…」  久しぶりに、半次郎の奇妙な懸声が、噴いた。  塁上の敵は、胴を両断されて、転落した。  その刹那、一弾が、半次郎の前頭部を貫いた。  半次郎は、塁の壁面へ、どうっと倚《よ》りかかった。  なかば無意識であったろう。半次郎は、愛刀定利を直立させた。  敵の血汐に濡れた冷たい刃面に、お吉の俤がうかんだ。  半次郎は微笑した。  やっと、お吉が待つところへ行ける悦びを、すなおに、その微笑にしたようであった。  享年《きょうねん》三十八歳だった。 ◆日本男子物語◆ 柴田錬三郎著  二〇〇六年四月二十五日